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弱肉強食論と楽観平和論 [政治]

人にはそれぞれ考え方があり、政治的意見は異なる。その考え方の違いの原因は弱肉強食論の受け入れ度合いによるものではないかと思うようになった。弱肉強食論と言うのは強いものが勝ち弱いものが負けるのが当たり前だという原理であるが、これをどう受け止めるかで人間の考え方の根幹がだいたい決まるのではないかと思われる。

もっとも強く是認する人は、弱者を省みないが実力主義で自分にも厳しい。弱い奴は怠慢なだけだと考え、悔しかったら強くなれと主張するし、自身も頑張っている人が多い。これにもっとも強く反発する人は平和主義・平等主義で、弱者の味方だ。弱い人が苦労するのはは社会システムの欠陥だと考える。

大抵の人は、ある程度弱肉強食の現実はしかたのないものとして受け入れ、弱者への思いやりも必要と認める中間派ということになる。中間派もかなりグレードに分かれる。これがいろいろな政治的意見の分かれ道になっていると思う。

例えば平和に関して弱肉強食度の高い人はは武装強化を考える。これを否定する人は平和主義者だ。国と国との関係が和平協調であれば武装はお互いを傷つけるおろかな行いである。日本国憲法はは言うまでもなく平和主義の立場を取っている。逆に、国と国の関係が弱肉強食ならば、生き残るためには武装するしかない。改憲論者は多くこの意見を持っている。

弱肉強食度の高い人は競争を是認し、格差が社会の活性を生み出すと考えるが、弱肉教職度の低い人は格差を忌み嫌う。弱肉強食に対する態度は時代によっても変わり、昨今では、殺伐とした世相を反映して、弱肉強食を現実として是認する人が増えているのかもしれない。自己責任という言葉がよく聞かれる。

しかし、本当に弱肉強食が徹底されたら、人間は耐えることができない。弱者に対するいたわりがあるから人間の社会なのだ。

弱肉強食を最大限に信じていたのは戦前の日本だ。弱肉にならないためには強食しなければならない。西洋に侵略されないためには自ら朝鮮・中国を侵略しなければならない。そう本気で考えていた。その結果が悲惨であったことは敗戦で思い知った。

第二次世界大戦のあと大戦争はぴったりと停まっている。20世紀の前半と後半は戦争の起こり方がまるで違う。人類は少し進歩したかもしれない。少なくとも戦場で失われる人命に関して敏感にはなった。弱肉強食とは反対に、国と国との関係は和平協調でありえる。だれもがこの信念にたいする信頼を少しは持つようになった。

「楽観的平和」と「弱肉強食」この2つの間で多くの人は中間の立場にある。どの程度どちらに近いかが、その人の考え方を大体あらわしていることになると思う。それがいろんなところに現れ、現実主義対理想主義、個人主義対国益主義、民生福祉主義対経済成長主義、自己責任論対社会責任論などとなっているのだ。
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