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受験の堕落 [社会]

議員は世襲、社長も世襲、タレントも2世が目立つ。そういったコネ社会のなかで、学歴主義は例外的に一応公平な競争を保ってきた。どんな金持ちの息子でもアホでは東大にはいれない。どんな出自であれ、勉強して一流大学にはいれば豊かな人生が開ける。これは一種のJapanese Dreamとも言うべきもので、数々の批判点はあっても、容認する人はかなりいる。

しかし、受験というものも時代とともに変化してきている。昔のように学歴だけでは就職できないなどと言われ、それだけ学歴の効力は落ちてきているといえる。なぜかというと、裏技が普及したために試験結果がその人の実力を反映しなくなったからだ。いろいろと試験改革がなされたことが逆に反映された形だ。

昔は、8科目5教科が国立大学の標準だった。理学部なら数学I、II、III、物理、化学、世界史、日本史、現代国語、古文、漢文、英語が必要で。私立でも最低3科目は必要だった。だから、これで合格するには、受験勉強をうまく計画する必要があった。自分の勉強時間の科目配分を考える計画性、自分に合った勉強方法を見つける創造性、勉強に耐える体力、計画を遂行する克己心、こういったものの総合力の結果が試験に現われたものだ。その努力の中で本当の学問に出会うことも出来た。

試験は記述式が当たり前で、難問奇問といった問題もでた。これに備えるために分厚い参考書を学ばなくてはならなかった。高校生が大学の先生が書いた難解な書物を勉強しなくてはならないのはおかしいといえばおかしい。四当五落という言葉があり、睡眠時間を5時間まで切り詰めたくらいでは、まだ落ち、4時間にしなければ合格しないといわれていた。過酷な猛勉強の意味だが、実際には健康を損ねないようにマネージすることも戦略の重要なところでもあった。

奇問難問を一発当てれば合格出来るという偶然性は、有る意味で合格者にバラエティを与えた。受験生としてもあきらめずに頑張る上で大きな助けになった。今の大学の様な同じ偏差値の同じ顔つきをした学生が顔を並べるのではなく、豪傑も生れた。昔の学生が良く勉強したと言うわけではないが、学生のバラエティが大学の卒業生の「実力」を鍛えた。奇問難問が批判されてセンター試験のような標準的なやさしい問題が推奨されるようになった結果、統一的、標準的な学生ばかりが合格するようになり、偏差値なるものが意味を持つようになった。

偏差値が受験界を支配するようになると、各大学は偏差値競争をするようになった。大学はその教育内容で評価されるべきなのだが、偏差値で評価するという風潮が強まった。同じ学生でも科目を少なく得意科目だけにすると偏差値はあがる。偏差値が上がれば力の有る学生が集まるという仕掛けで、どこも8科目を維持することが出来なくなってしまった。今はどうかと言うと、科目が非常に少なくなった。国立でも8教科のところはない。

科目さえ少なくなれば、裏技は発揮しやすい。最小の努力で最大の点数をあげるテクニックが塾や予備校で伝授されるようになった。自分で戦略を立てることもなく。塾や予備校のカルテにしたがって覚えて行けば合格する。そのほうが効率がよい。もはや四当五落の猛勉強は姿を消したし、分厚い参考書も必要がなくなった。どれだけ投資してよいカルテを手に入れるかが受験の当落を決めるようになってしまった。受験は学問とは何の関係もないものになってしまった。

予備校や塾のプランにうまく自分を合わせる柔軟性、意味の無い受験テクニックを疑問をもたすに受け入れる従属性、塾や予備校に支払いができる親の収入。こういったものが受験の決め手になってきた。たしかに、これでは学歴だけでは就職できなくなるのも当然だろう。

日本の唯一の公正な競争と思われた受験競争も落日を迎えている。

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