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日本の尖閣領有宣言は無かった [尖閣]

数年前まで、「日本固有の領土で、領土問題は存在しない」などと議論を避けていたが、最近は「尖閣は無主の地であったので、1895年に国際法に基づく領有宣言をして日本のものになった」というのが、宣伝されている。国際法は無主の地を領土として宣言することを認めているというのがその論拠だ。しかし、これは全くのウソである。外務省の公式見解も同じようなものであるが、微妙に領有宣言と言う言葉を避けている。

無主の地として勝手に領土にできるのは、実質上新大陸の発見などの場合に限られる。無主先占は広く領有を世界に知らせ、どこからもクレームがつかないことを確認して初めて成立するからだ。国境にある島など、所属未確定であっても、すでに知られている地は、勝手に宣言しただけで済むはずがなく、両国の協議で決める他ない。こんなことは、常識であり、明治政府も「先に領有宣言したもの勝ち」だなどと考えてもいなかった。

明治政府が何を考えていたかというと、韓国が竹島でやっているのと同じような既成事実の積み上げである。所属のはっきりしない尖閣に、こっそり国標を立てたり、漁民に上陸させたり、あるいは定住者を送り込んだりして既成事実を作ろうとしていたのだ。多くの既成事実が積みあがっておれば、協議は有利になる。当事の状況では、文献証拠はすべて中国であり、協議は圧倒的に不利だった。すぐに協議を始めるのは大変まずいことになるから秘密で物事を進めることにした。これは世界に広く「宣言」する事とは、相容れない方向だ。

清国の歴史文献も完璧なものではなく、清国領を証明するものではない。しかし、協議となれば、それは相対的なものだ。いくつもの文献がある清国に対して、日本には1つしか文献がなく、しかもそれは尖閣を清国領としている。琉球になにか手がかりはないかと調査したが「該島に関する旧記書類および我邦に属せし証左の明文 又は口碑の伝説等もこれ無し」という状態だから、圧倒的に不利だ。この時点で、まともに協議をしたら、まちがいなく清国領になっていたといえる。

結果的には、日清戦争で台湾まで日本領土としてしまったので、その中間にある尖閣は自然と日本領土となってしまった。下関条約に尖閣のことを持ち出さなかったのは当然で、わざわざ一旦清国の領土と認め、さらに条約で日本の領土とするような馬鹿なことをする必要はない。

尖閣は、所属が未確定だったが、日清戦争の結果による圧力で、無理やり日本領としたものだ。もちろん明治政府にとっては、それは何ら不都合なことではない。まさか、ポツダム宣言で戦争で取った領土は放棄しなくてはならなくなるなどと考えもしなかったからだ。

ところが、現在の日本政府は、明治政府が無主の地に新領土を宣言したと言っている。これは、領有の経過をなんとか日清戦争と切り離そうと現代の日本政府が考え出した策略である。後付だからいろいろと齟齬が生じてしまうのは当然だろう。

もし、尖閣が無主の地であり、領有宣言だけで所属が決まるのなら、清国に先を越されないように、急がねばならない。しかし、明治政府は10年も機会をうかがい、急いだ様子はどこにもない。明治政府は、国際法に基づいた領有宣言がどのようなものであるかを、もちろん知っていた。領有宣言で尖閣を取得するつもりなら、しっかりと手順を踏むはずだ。実際に、小笠原や硫黄島では、しっかりと各国に領有を通知している。ところが、尖閣ではそういった配慮を何もしていないのだ。

清国はおろか、どの国にも、領有宣言を通告していない。それどころか宣言文自体がそもそも存在しない。官報の隅にでも書いてあるのかと思ったが、どこを見ても領有宣言は書いてない。これでは、クレームがつかないのが当然だから、手順が間違っていて有効な領有宣言にならない。当時の政府内部文書が公開されているが、領有宣言を議論した記録すらない。領有を宣言するつもりなら、こんな間抜けなことはないだろう。やるつもりが無かったことが明らかだ。

外務省は1895年1月4日に領有宣言したから台湾取得以前だと言うが、その日やったことは、閣議で国標建設の許可を秘密裡に決めただけである。しかも、実際には国標は建設しなかった。日清戦争の結果、そんなものは必要なくなったからだ。秘密にしたままでは、どのような宣言にもならないのは当然だろう。この日の議事録「秘第133号」は1952年になって外交文書が公開されるまで、日本人でさえ誰も知らなかったのである。

外国政府が日本の尖閣領有を知ることが出来たのは、1897年6月3日の官報にある勅令169号(煙草専売法に関する特例!!)を見た時でしかない。これが日本政府による初めての公式な尖閣への言及になる。もちろん、下関条約で台湾まで手に入れてからのことであるから、尖閣領有を日清戦争から切り離そうとする外務省の意図は破綻せざるを得ない。

各国が領有を知ることとなった1897年には、すでに日清戦争後の力関係になっていたし、その3年後1900年には、北清事変で北京に日本軍が侵入した。その5年後1905年には大軍を中国に送り込んでの日露戦争になった。その後も第二次世界大戦が終わるまで、尖閣を問題にできる状況がなかった。これを利用して、領有にクレームがつかなかったから無主先占が成立したと居直っているのであるが、ポツダム宣言の受諾が優先するので、1897年の領有ではこれも破綻せざるを得ない。

1985年1月4日に、あたかもまっとうな領有宣言をしたように見せかけた説明をしているのはごまかしである。


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