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尖閣の帰属決定-----勅令13号の謎 [尖閣]


沖縄は、明治5年(1871年)に琉球王国を滅ぼして日本領にしたものだが、その行政範囲が24年間にも渡って定まらなかったと言う奇妙なことになっている。琉球王国が清國と薩摩に二重朝貢していたので、清國との間に紛争が起こり、日本側から先島諸島を中国に譲るという沖縄の分割提案をした。結局は交渉を打ち切って、単独支配を決めたのだが、アメリカの仲介などがあった手前、清国の同意を得ていないのでは、決着がついたと言い切れなかった。対外的には清國の同意を得るため交渉中という状態を続けざるを得なかった。

朝鮮をめぐっての日清戦争に突入し、日本が勝ったことで、分割提案は、自然消滅した。下関講和条約に、宮古島や尖閣のことは何も出さなかったのは当然で、出して割譲すれば、もともとは、清国領だったということになってしまう。結果的に台湾まで日本領になってしまったのだから、誰はばかることなく沖縄の行政範囲を定めることが出来る。明治29年(1896年)3月5日に勅令13号で沖縄県の範囲を決めている。このとき、尖閣領有も、きっちり整理できそうなものだ。

ところが、勅令13号の現物を見てみると、なんと尖閣諸島のことは何も書いてない。本来なら、八重山郡を八重山諸島と尖閣諸島で構成するはずのものだ。あるいは、八重山郡からは切り離して島尻の中に列挙するはずのものだ。外務省は勅令13号では八重島諸島に尖閣を含めていると強弁している。しかし、前年まで八重山郡でなかった「無主の地」が、新たに日本領になったと言うのなら、ここに書かないわけには行かないはずだ。地理的にも、2000mの深海で区切られた尖閣を八重山諸島に含められるはずがない。

実質的には、後年、尖閣を沖縄県の範疇に入れて実効支配を進めている。しかし、この勅令は、尖閣は沖縄県ではないと表明したものと理解するほかない。勅令というのは十分に吟味して発されるものであり、書き忘れなどということは絶対に無い。

尖閣を沖縄県ではないとしている資料は他にもある。同年7月に海軍水路部が発行した「日本水路誌 第二巻 付録」では、綿花嶼、膨佳嶼と共に、尖閣を「台湾及び付近諸島」に、含めており、八重山群島とは地質的に異なることが強調されている。これは、勅令13号と一致する見解だ。

1894年7月の「日本水路誌 第二巻」では、先島諸島の項に、ラレー岩、ホアピンス島、ピンナクル諸嶼という記述があるから、同じ海軍水路部が下関条約の前後で位置づけを変えていることになる。日清戦争後の1896年に尖閣をわざわざ台湾の付属諸島にしているのだ。

勅令13号の謎を解く上で重要なのは、1895年に尖閣を無主先占で日本領にしたという主張は、70年後に外務省が初めて創作したもので、当時は存在しなかったということだ。

1995年の「閣議決定」なるものは、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」というだけのもので、これをもって領土に編入しただとか領有宣言に読み替えるのは曲解でしかない。どの国にも通知しておらず、しかも、「秘133号」として、国内でさえ非公開だったのである。だれもが尖閣は日清戦争で取ったと思っていて当然なのだ。明治政府も、まさか、70年後に外務省が前年の閣議決定が領有宣言だったと言い出すとは思っても見なかっただろう。

勅令13号の時点では、尖閣は日清戦争で中国から獲得した新領土と考えていた。日清戦争の下関条約では「台湾およびその付属諸島」を獲得したのだが、この付属諸島に尖閣が含まれていたと考えるのは当時の政府として何の不都合もなかった。なんとかして尖閣を日清戦争から切り離したいと考えている現在の外務省に不都合なだけだ。

日清戦争以前には、尖閣を沖縄の一部と強調する動きがあった。いくつかの民間地図が日本全図に尖閣を描いたりもしている。しかし、これは、外交的根拠もないので、政府として取れる立場ではなかった。1884年の海図第210号では、尖閣諸島の一部について尖閣群島という名称を使っているが、国境線を明示したりはしていない。

「沖縄県管内全図」と言うのがあり、国会図書館所蔵のものには表紙があって、沖縄県庁著となっているから公式な立場を表明するものだ。これは文字通り沖縄県の管内を全て書いた、かなり精巧な地図である。普通の地図は管外も入ってしまうのだが、一切入らないように沖縄本島だけの地図に、枠を作って外の島を入れている。この1885年版は、大東島や鳥島まできっちりと枠を作って書いているが尖閣は描いてない。

尖閣については、公式には領土と主張して国際問題にする事を避けて、非公式に領有を示唆するというのが日本の立ち位置だっただろう。日清戦争以前には、何の根拠もなく、尖閣問題を表沙汰にするのは不利との判断があった。しかし、琉球処分以来、懸案だった沖縄県の行政区分を確立する準備はもちろん進めていた。中国との協議は打ち切ったものの、まだ国際的には理解が得られたとは言えない先島諸島の帰属を明らかにすることがまず第一の課題だった。この「沖縄県管内全図」の立場をそのまま表現したのが勅令13号だ。日清戦争で獲得した領地に関しては、台湾付属諸島として別個に処理しておいたほうが、すっきりする。

先島諸島に関しては従来から日本領土であったということで帰属をはっきりさせる。これまで一度も国際的に日本の領土であると主張したことのない尖閣は、下関条約で中国から取ったということで、きっちりと整理できる。そのための位置づけ変更はある意味で当然とも言える。この切り分けのために勅令13号からは、尖閣を除いたのだ。勅令13号は尖閣を台湾の付属諸島と考えている。くりかえすが、1995年の閣議は、誰も知らないのである。

1944年になって台湾と沖縄の漁民に漁業権争いがあった。この時は両方とも日本国内だったのだが、裁判所は「尖閣諸島は台北州宜蘭郡の管轄下に帰屬する、沖縄県とは無関係」という調停をしたということだ。確認はできていないが、もし事実ならば、それは勅令13号に依拠したものだっただろう。

後年の取り扱いでは、尖閣は沖縄県として扱われ、八重山郡の所管になっている。台湾総督府が発足し、綿花嶼、膨佳嶼を台湾の所属としたので、自然に尖閣が沖縄に属することになったという形だ。「沖縄県管内全図」も1904年版になると尖閣が入っている。勅令に変更はなく、実務的に沖縄県を通して尖閣の実効支配が進められていった。台湾まで日本領となってしまえば、何も言わなくとも各国は尖閣を日本領と認めることになる。しかし、閣議決定は外国に知らされなかったし、勅令13号にも尖閣がなかったから、外国が日本の尖閣領有を知ったのは、公式には1897年の勅令169号と言うしかない。

その3年後には、北清事変で日本軍が北京に押し入ることになったし、1905年には日露戦争で満州に大軍を送っている。その後も、内戦、文革と国内のごたごたで、小さな無人島の領土問題にまで手が回らないのは当然だから、60年に渡って異論がなかったと言っても説得力が無い。日本も、英国の小笠原領有宣言に20年に渡って沈黙していた。

中国が尖閣領有を問題にしだしたのは1970年代であるが、日本だって70年台までアメリカに対して尖閣諸島を帰せと言ったことは少なくとも公的には一度も無い。外交上なによりもまずいのは、沖縄返還の時に尖閣諸島を明示しなかったことだ。それだけではない。日本はアメリカに明示してくれと頼んだのだが、断られてしまった。断られて問題になったのならそれでもいいのだが、それをいとも簡単に了承してしまった事が記録に残っているのだから主張は決定的に弱い。

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