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大西隆氏の奇妙な軍事研究容認論 [技術]

日本学術会議会長の大西隆氏が、毎日新聞に寄稿している。学術会議は、これまで安全保障にかかわる研究に対する規範をもっていなかったので、委員会を設けて議論するとという。そんな事はない。日本学術会議は、被爆国の経験から、一貫して、人殺しのための研究、軍事研究を否定してきた。軍事研究に対する規範はしっかり持っていた。結論は委員会にゆだねるとしながら、委員の一人である同氏の所論を述べている。規範を変更しようという意図が見えてしまう。

同氏も、これまでに学術会議が戦争目的の研究を否定してきた事を「重く受け止める」と言うし、防衛官庁による研究費を「低く留めなければならない」と、軍事研究が好ましいものでないことは認めているようだ。にもかかわらず、軍事研究を容認する論理がどこから来るかというと、国民の多くが「自衛権を容認し、自衛隊の存在を認めている」から「安全に貢献しようとするのを止めるわけには行かない」のだそうだ。

自衛隊の存在を認めることと、大量殺戮の高性能兵器を開発することには大きなギャップがある。安全保障のために軍備を持つことが必要だと考えている人も、科学者が殺人兵器の研究に狂奔することを望んだりしていない。大西氏は、ここからデュアルユース、つまり軍事にも民生も役立つ研究のことに話を逸らすのだが、その前に明確にしておかねばならないことがある。

はたして純然たる軍事研究すなわち、より効率よく人を殺す研究が望ましいものなのか?より優れた兵器の研究が人類に幸せをもたらすものなのか?これをはっきりさせてから、デュアルユースなど境界のあいまいさを議論すべきだ。答えは、誰に言わせても、もちろんNoである。科学を人殺しのために使うことは、やりたい人がいれば「止めるわけには行かない」で済む話ではない。

純然たる軍事研究で考えて見れば明らかなように「多くが自衛隊を容認している」は、人殺し研究を容認することと何の関係もない。このことは、デュアルユースであっても同じだ。科学は「善用」もされれば「悪用」もされる側面がある。だからといって「悪用」を目指した研究が容認されるわけではないのだ。

同氏が豊橋科学技術大学の学長として、防衛省研究費の応募を許した理由は、毒ガスフィルターの開発が民生にも役立つからだと言う。確かにメッキ工場とか有毒ガスを扱う半導体製造など、実際に使われるのは民生現場が多いかも知れない。ならば、これを軍事研究として行う必要はない。堂々と研究費を募り、純然たる研究として行えば良い。

軍事研究に応募する理由は、金が取やすいからだ。学長として研究者に問うべきだったのは、本当に軍事研究をやりたいのかどうかだ。例え資金がなくとも、人殺し研究をやりたいと言うまともな学者はいない。軍事研究は全て金がらみだ。軍事研究が好ましいものではないことを殆どの科学者が意識している。いま問われていることの本質は、科学者が金に目がくらんだ研究をやって良いのかどうかである。

同氏が言うように「自由な研究成果の発表」など、敵に知られないことが必須の軍事研究に求めるべくもない。デュアルユースを持ち出したり、安全保障意識を持ち出したりするのは、金に屈服する言い訳を与えようとする試みに他ならない。学術会議が軍事研究を容認する方向に転換するとしたら、もはや科学者を代表するものでなく、単なる政府の従属機関に過ぎない。選挙制から任命制に移行した結末がこれである。
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