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逃亡46年、大坂正明容疑者は無罪になるのではないかな [社会]

46年間指名手配されていた大坂正明容疑者が逮捕された。全人生を逃亡に費やすくらいならもう少し早く捕まったほうが良かったのではないかと思う。警官殺害の容疑だから、世間では「罪を償ってほしい」とか「卑怯な逃亡犯」といった風当たりが極めて強い。しかし、1971年の空気を吸ったものの受け取り方は少し違う。この事件はむしろ事故といった感覚がある。

沖縄は米軍の占領下にあり、全島が米軍基地状態だったのだが、日本に返還されることになった。これで米軍基地が無くなるかと思ったら、基地付き返還だということで大いにもめた。これは今も尾を引いている問題だ。基地反対運動が盛り上がる中で、中核派が渋谷で大暴動を画策したというのが事の次第だが、気分的には沖縄返還とのかかわりは、ほとんどない。

当時の若者に充満していたのは一種の閉塞感だ。マイナンバーや共謀罪といった締め付けが進んでいるが、その前兆は70年代にもあった。建国記念日が復活し、君が代の強制が始まったりしていた。今ではそれが当たり前のようになって反発も少ないのだが、戦後の自由な時代を過ごしてきた当時の若者には崖っぷちの恐怖だった。このまま窒息しそうな社会に進んで行くことに対する反発は強く、世の中をぶち壊したいと言う破壊衝動が誰の胸にも実は少しはあった。

60年代の末、ベトナム反戦運動、安保条約反対運動などのデモが行われたが、ただ歩くだけでなく、道いっぱいに広がったり、規制してくる警官隊ともみ合ったりするほうが戦う実感がある。運動不足の解消とかうっぷん晴らしで気軽に参加したものだ。それが70年当時の空気だった。

「中核派」とか「革マル派」などと言うグループがこういったちょっと過激な行動を組織するようになった。棒を持ってデモをするとか、警官隊に石を投げたリして逮捕もされるのだが、それが逆に話題と共感を呼んで、参加者が増えていく事になった。各派は過激さを競うようになっていった。

大学内での暴動とも言える全共闘の学内占拠でさらにこれが広がったが、中でも中核派はその行動力で人気を博した。参加しないまでも「やれ!やれ!」といった声援を送る人は多かった。社会には破壊衝動が充満していたのである。

しかし、一番先鋭な学生たちは中核派では飽き足らず、赤軍派などといった超過激派に取り込まれるようになっていった。業界では中核派の隆盛にも陰りが見えてきたのだ。ここはひとつ大々的な闘争をやって見せて、さらなる増殖を図らねばならない。過激な闘争のパーフォマンスこそが組織拡大の要点だと信じていた。暴動が目的であり、沖縄の基地はどこかに飛んでしまっている。

1971年11月14日に全国から何万人もの参加者を動員して、渋谷一帯を開放区にすると予告した。「邪魔立てする機動隊はゲバ棒と火炎瓶でせん滅する」という鼻息の荒い宣言だった。当然、警察側も徹底して鎮圧するという姿勢を見せ、全国から警察官を呼び集めて機動隊を編成した。死んだ中村巡査は新潟から派遣された人だ。

当日、各地から集まった人数は何万人には届かなかったが何千人かにはなっていた。ゲバ棒を振り回し、火炎瓶を投げて渋谷一帯は大混乱に陥った。「犯人」と「刑事」といったものではなく、機動隊と中核派の戦争のような様相を見せていた。渋谷駅の衝突では永田典子という高知から来た女性が警官隊に殺されているからどっちもどっちなのだが、このことは今日忘れられている。

集会は禁止され、電車も止まったりしたので、衝突は分散され、代々木駅から渋谷に向かう一隊もあった。駅に集まった参加者を前に、肩車されて演説した青っぽいコートに白ヘルメット、ネクタイを締めると言ういでたちの男が目撃されている。単なる学生ではない。これが主犯とされる星野だ。「今こそ決戦の時だ。命がけで戦え。邪魔立てする警官は容赦なく殺せ!」火を吐くようなアジテーションだった。成田闘争の争乱ですでに指名手配されているにも関わらずこの場に現れた筋金入りの指導者だ。

この150人ほどの一隊はかなり強力で、渋谷に向かう途中の交番を襲撃して火炎瓶を投げつけたし、警官隊も阻止できずに後退した。というか、逃げた。警官隊にしっかり組織的な統制がとれておれば、そんなことは起こらないのだが、ばらばらと逃げたので、取り残される警官もでた。逃げ遅れたのが、田舎から来て土地勘のない中村巡査だった。

デモ隊に取り囲まれて袋叩きになってしまった。渋谷駅で女子参加者が殺されたりしているし、警官にはさんざ殴られているから参加者はいきり立っている。誰かが、倒れている中村巡査に火炎瓶を投げつけた。デモ隊はさらに進んで渋谷を目指したのだが、結局は阻止され夜が更けると共にばらばらと解散して行き、現場には倒れた中村巡査が残され、病院に運ばれたが亡くなった。

計画的な殺人ではなく、集団心理でやってしまったという偶発性のあるものだ。誰が殺人犯なのかということの特定はなかなかむつかしい。当日合計330人もの参加者を逮捕したが、多くは別の現場だ。もちろん犯人割り出しに協力は得られない。そもそも全国から集まった、何千人もの参加者は、それぞれに面識がない。白ヘルメットにタオルの覆面だから識別も出来ない。現場に誰がいたのかは当事者にもわからないのである。

中村巡査を殺したのは、多分都内の労働者の一隊だろうと推測された。新聞にもそのように書いてあった。現場付近は「全学連」ではなく「反戦」と書いたヘルメットが多かった。星野が指揮している事からみても、闘争経験豊富なコアな部分がいたはずだ。星野は先頭で指揮していたから少し後方で起こった殺人には直接の関与はないはずだが、警察としては何としても犯人を捕まえなくてはならない。主犯は星野と決めて執拗に捜査を続けた。

捜査は難航した。星野が率いていた筋金入りの連中は、逮捕されても絶対に口を割らない。警察が目を付けたのは、白ヘルばかりの一隊のなかに黒ヘルが少し混じっていたことだ。組織的に中核派とつながりのない若者が闘争に参加する時に、勝手に白ヘルを使うわけには行かないので黒ヘルを被ったりする。これを追及して行くと、群馬から来た高校・高専の少年たちだということがわかった。高崎経済大学の学生たちに参加を呼びかけられたらしい。

初めて闘争に参加したような少年たちは取り調べやすい。結果、現場近くにいた高崎経済大の3人の学生の名前が特定できた。すでに退学して職業革命家となっているが、星野も、もとは高崎経済大だからつながりはつく。「星野が指揮する高経大グループによる殺人」ということで、逮捕そして裁判になった。「星野と思しき男がが命令して、自分以外のだれかが火炎瓶を投げた」といった証言を引き出している。少年たちから見れば星野は雲の上だから面識はない。このとき現場に居合わせたもう一人の人物として特定されたのが大坂正明だ。

大坂が逃亡中に裁判は進み、星野は無期懲役、荒川は25年服役して出所した。裁判は、「星野が指揮する高経大グループによる殺人」としての判決になっているが、判決文を見ても、誰か犯人がいるはずで、このグループ以外名前も特定できないからこれにしておこうといった意味合いしか読み取れない。

裁判の過程で、かなり強引に、星野が現場で高経大グループを指揮して殺したというストーリーが展開され、それがすでに判決として確定している。大坂正明は千葉工大だから高経大グループとは結び付かない。星野が主犯だとするストーリーが強調されるかぎり、大坂の果たした役割はあまり盛り込めない。ただ現場近くにいた名前のわかるもう一人の男というだけになってしまう。

この事件に関与したということであれば、凶器準備集合、暴行致死、公務執行妨害、殺人幇助などいろんな罪名が考えられ、大坂の役割に見合ってこれらを適用することはできる。しかし、46年間逃亡した結果、殺人以外は全て時効になっているから、有罪とするためには大坂本人が殺人をしたという証拠がいる。主犯・指揮者はすでに星野になっているから実行犯しかない。物的証拠は何もないし、証言も大坂の具体的な行動に関するものはない。もちろん本人の自白は考えられない。これで裁判は難しいだろう。大坂正明は結果的に無罪になるのではないだろうか。

しかし、立憲主義も法の支配もないがしろにされているこの頃だ。どんな無茶苦茶な論理の裁判になるかわからないといった状況ではある。

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