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普通に暮らせば大金持ち [社会]

普通の暮らしというのはどんなものを指すのだろうか。かつて考えられた普通の暮らしとは、まあ適当に高校か大学を出て就職し、結婚、ローンで家を建てて、そして休日には子どもと遊んだりしながら、定年まで勤めるということであった。こういった普通の暮らしは誰でもが望めば出来るものであるとされてきた。

今やこの普通の暮らしと言うのが難しいという世の中になってきた。若者の50%が非正規雇用なのだからすでに半数はこういった普通の暮らしから外れている。正社員でも土日が休める人はますます少なくなって来ている。高卒で普通の暮らしは公務員以外にあり得ず、公務員試験の初級は大卒でないと受からないようになってきている。もはや普通の暮らしはよほどのエリートにしか許されないかのような状態だ。

普通の暮らしができないとは世の中がおかしい。そう言いたいのだが、実は、普通の暮らしとは、3代続くと金満家を産み出す暮らしなのである。

「普通の暮らし」では、初任給は年200万で、子育て時代を年収500万位で家を建てて、ローンを払いながら暮らし、定年時には700万円位の年収に成りローンを払い終わる。定年後は月25万くらいの年金で暮らすのだが、持ち家があるのだから十分に暮らせる。そこに退職金が3000万円程度入るのだがまず使い道がない。ローン返済と学資に追われ、つましい暮らしが身についているから、急に贅沢なくらしなどできない。海外旅行に行ってみたりするが、そう何度もいけるものではない。

結局のところ家一軒と退職金プラスアルファの資産を残して死ぬことになる。遺産は締めて7000万円。多いように感じるが多分これくらいが標準的な遺産相続額なのだと思う。7500万円くらいまでが無税で相続される額になっている。

小子化の時代だから、この額はそのまま夫婦合わせて一軒が受継ぐ額になる、同じような普通の暮らしが3代続けば相続額は積み重なって行き2億円を越える。2億円で電力株を買えば配当が年800万円になるから、働かずとも十分暮らしていけるので立派な金満家である。

つまり、全ての人が普通の暮らしを3代続ければ日本中誰も働かなくて良いことになる。これは確かにおかしい。だから、かつて考えられた普通の暮らしというのは、もともと長くは続かないものであったのだ。労働力も商品である。需要と供給の法則に従えば、貯金を使い果たして死ぬのが当たり前のように労働力が買い叩かれる方向に動いて行くののだろう。

金融機関という詐欺師集団 [社会]

定年を迎える人たちを対象に、盛んに資産運用を促す宣伝をしている。年金だけでは生活が苦しい。資産を運用して年金を補強しなければ暮らしていけない。是非、うちの金融商品を買って資産を運用してください。といった調子だ。資産運用にはリスクはつきもので、元本が保証されるものではありませんという巧妙につけてある。

元本が保証されていないことと、「生活が苦しいから」と言う言い方は矛盾する。タダでさえ生活が苦しいのなら、もし損失で元本を失ったら、それこそ生活が成り立たなくなる。そんな人に投資を勧めるべきではない。言うなら、「苦しい生活を続けるよりも、一か八かの勝負に出て、安楽な暮らしか、野垂れ死にかの決着をつけませんか?」といわなければならない。

もちろん金融機関はそんなことは言わない。彼らが詐欺師であることの証明でもある。金融機関全体が詐欺なのだ。予測できない株の売り買いで利益を得るのは博打と何等変わるものではない。博打は胴元がもうかる仕組みになっているが株式もやはり証券会社が金を吸い上げる仕組みになっている。

金融機関は証券会社ばかりではなく、銀行もあれば、投資会社もある。銀行は多額の金を持っていて貸し付けるかと思いきや。日銀から借りた金を貸すのである。直接日銀が貸してくれれば公定歩合のゼロ金利なのに銀行を通せば4%のマイホームローンになる。これは当然詐欺である。

投資会社に至っては、泥棒という他無い。博打に倍々法というのがある。丁半博打で負ければ掛け金を倍にしていく。連敗には限度があるから、いつかは勝つ。倍々法ならそれで確実にトータルをプラスに出来る。投資会社のやり方もこれと同じで、確実に株式市場で儲けを出す。倍々法も何度も繰り返しておれば、いつか予期せぬ連敗が起こりオケラになる。身ぐるみはがれて追い出されるのがオチだが、投資会社は、このような場合あまりに社会的影響が大きいということで公的資金の投入を受けるのだから、これは確信犯的泥棒である。

金融機関の甘言にのって、虎の子の退職金を投資してしまう愚を犯さないように、くれぐれもご注意。

生活保護が増えているけど [社会]

生活保護を申請する人が増えている。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2950.html
この10年間2倍増えて120万世帯を超えることになった。そして、今後さらに増え続けることが予想されている。今でも老人の生活保護が多いのだが、無年金者が増えればさらに増える。

あほな政治家が、財政を理由に、年金制度をぶち壊してきた。年金の支給率をさげて、国民年金を魅力のないものにした。現在の国民年金加入率は30%まで下がったと言う。あとの70%に蓄えが十分なはずがない。あと何十年かしてフリーター世代が老齢化したとき、恐ろしいような生活保護需要が待ち受けている。

あほな政治家は年金を減らしたと同じように、「自助努力」とかなんとか言って支給を減らそうとするに決まっているが、その結果はどうなるだろうか? どうにも生活が成り立たなければ犯罪に走るしかない。自分の責任と納得できない少年達は大挙して反社会行為に走るだろう。

あほな政治家はそれでも、取締りの強化を対策とするだろう。結果は、刑務所費用の増加である。刑務所は、24時間体制で番人が張り付く必要もあって非常に高くつく。財政はさらに逼迫する。

結果はさらなる治安の悪化だ。もはや警察力はたよりにならない。金持ちはこぞって私設のガードマンを雇い入れる。警察のモラルもどんどん低下していく。

いったいどこまでこのネガティブな連鎖はつづくのだろうか? 実際にそこまでひどくなっている国もある。

そう考えると、たとえどんなに無理をしても国民に適正な年金を保証して、こぞって年金加入する社会にすることが一番経済的だということが分かる。年金加入率の高い社会は多くの人が見通しを持っている社会だということだ。

悪銭身に付かず、良銭身に付き過ぎ [社会]

悪銭身に付かずといわれるが、逆に良銭は身に付きすぎて困るもの。世の年寄は、持っているお金が使えず溜め込んでしまっている。そりゃそうだ。携帯料金がかさむわけでもなし、流行の洋服を買うわけでもない。食べる量は知れている。それにもまして生活は質素なのである。「金さん銀さん」と言う双子の年寄り姉妹が人気だったころ、テレビの出演料とかどう使うかと聞かれて、「老後に備えてためておく」と104歳が答えたという話もある。要するに使い道がないのだ。

子ども2人を大学にまで行かせれば、授業料と下宿代で毎月莫大な金がかかる。これをなんとか耐え忍ぶためには節約せざるを得ない。これが10年位も続くのである。節約は骨身にしみついてしまう。子どもたちが卒業して社会人になると、毎月の経費は三分の一以下になるだろう。そのころ家のローンも無くなるし、地位も上がってサラリーも増えてしまう。急に経済的余裕が出来ても、生活は対応できない。この時点で、もう収入と生活を関連付けることをあきらめてしまう。持ち金にはかかわりなく質素に暮らすことが決定付けられるのだ。

退職金が入ったり、親の遺産をもらったりもするが、働き盛りには金には苦労している。あの辛苦を思えば得たお金を、そうたやすくは使えない。いまさら、若かりし頃のあの労働はできるべくもない。その対価として得られたお金は貴重なのだ。何かを買おうとした場合、それが、今ではやろうとしても出来ないあの労働に見合ったものかをつい考えてしまうのである。良銭であるからこそ身に付きすぎるのだ。大抵の老人は、もっと使えばいいのにいと子供たちから言われながら遺産を残して死んでいく。

無駄使いはしたくないが、本当は、有効に使いたい。そういった気持ちに付け込むのが、オレオレ詐欺で、騙される人は必ずしもボケているわけではない。何とかお金を役に立てたいという気持ちがあるから、騙しやすいのだ。

世の中は良銭ばかりではない。金融操作で悪どく設けた輩も多い。人のために使うということを知らない金持ちの溜め込みもひどい。アメリカでは、人生の最大の目標は「慈善事業」だ。ビル・ゲイツもマイケル・ジョルダンも慈善財団を作った。金持ちになり功成り名を遂げた人は慈善財団を設立する。大きな慈善財団を作った人ほどエライ人として歴史に残る。日本では資産は「子孫の繁栄」にのみ使われる。

どちらにせよ、資産の溜め込みが経済の循環を妨げ、不景気をもたらせている。消費税などと言わず、相続税と資産税を増やしてこれを吐き出させる政策を考える政治家はいないものだろうか。いやいや、そんな個人の溜め込みよりも桁違いに大きなのは企業の内部留保だ。これをを吐き出させる強力な施策はないものだろうか。
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工業国が身を削って農業を支えなければならない理由 [社会]

日本の農業は死にかかっている。米価がまた下がり農業は採算がとれなくなっているのだ。野菜にしても、農家は時給換算すれば300円くらいしかならない。産業としての農業はもはや瀕死となっている。

これに対して民主党政府は何も打つ手をもっていない。農産物の輸入に関しても10%の農家のために90%の国民が犠牲を払うことはないなどと言う大臣すらいる。日本は工業国として生きて行くのだから、農業はいい加減あきらめた方がいいと考えている人は多い。

反論として国防的見地を持ち出すアナクロな人もいる。兵糧攻めに弱い国では戦えないという言い分も、各国と仲良くして工業製品を買ってもらっている現実の前には説得力があまり無い。食料は輸入すればよい。それが国際分業なのだと言われれば、その通りだからだ。

日本に工業が存在する理由を考えてみよう。工業材料はほとんどなく輸入しなければならないし、輸出に便利な位置にあるわけでもない。工業が日本を拠点とする理由は人材にある。良質の労働力、優れた人材があるが為だけで日本の工業は発達してきた。天才は少ないが、一応のことが出来る人間が大量にいる。これが日本の強みだった。

この人材の供給のもとになるのが農業だ。日本には全国各地に発達した農業があり、それに支えられた大きな人口がどこにもあり、これが工業人材の供給元になった。農業がしっかりしていれば地方の商業も活況しめすことができる。生活のために都会に出て行き工業に従事する必要はない。まともな旦那衆は地方に根ざして伝統を守って活躍した。百姓のせがれが学問などして何になる。しっかり働けと胸を張って言い切った。

だから、一種のはみ出し者ではあるが、安定した地方での暮らしに飽き足らない意欲をもった者だけが、中央の大学に進学したり、工場労働者となって生産に従事した。結果的にエンジニアや、国際セールルマンを生み出し日本の工業化を支えた。どこの大学でも成績優秀者は地方出身の田舎者だった。地方の文化で育てられ、異文化に晒される鍛え方をされることになった若者の強みが発揮されたのだ。思い切って大志に挑戦し、敗れれば国に帰るという選択肢も彼らにはあった。

農業がしっかりしておれば、地方に人口が張り付き、人材の供給が途絶えることはない。農業が疲弊し、地方が人材の供給能力を失ったとき、日本の工業も同時に衰退していく。それはもう進行していると言っても良い。東大など中央の良い大学に進学する地方出身者の激減が10年前頃から始まっている。大学生は都会の洗練された賢さを身に付け、逆に言えば田舎的なゴツゴツした力強さがない若者ばかりになってしまった。小子化から人口の減少にはいり、地方ではそれが激しく過疎化も進行している。もはや農村は人材の供給源になれない。

まだ地方から上京する学生減ったわけではないが、地方では就職が無くて都会に流れたにすぎない。思い切って大きな挑戦をして、敗れたら帰ることの出来る故郷は彼らにはない。こじんまりと生きていくことだけが目標となる。そのような人材供給も、そのうち枯渇する。農業が崩れれば地方に人口が分布する理由がないからだ。農業は食料と自然を供給するだけではない。人材も結局農業を起点としている。このバランスが崩れたらもはや社会は崩れるほか無い。かつて文化の中心であったが、近年の生産が目覚しくないヨーロッパの国々が、今なお高い生活水準を維持しているのは農業と工業のバランスをうまく取っているからに他ならない。

極端な奇形である工業だけの国は長続きしない。日本の末路を避けるためには何とかして農業を再生し、人口基盤を作らねばならない。工業国が身を削ってでも農業を再生させなければならない理由がここにある。

「退屈する」ことの大切さ [社会]

動物園の動物はオリの中に入れられてかわいそうじゃないんですか? こんな子どもの質問に対して動物学者が答えていた。動物は食べ物を探して走り回るのであり、食べ物があればじっとしているのが好きなのでかわいそうだと言うことはない。たしかにそのとおりで、犬でも猫でも暇があれば寝ている。飢えてもいないのに一日中動き回るということは決してしないのだ。

人間は他の哺乳類に比べて体毛が極端に少ない。これは夏の暑いときも全身から発汗して働くためである。犬の様に舌からの蒸発潜熱だけでは足りないくらいに良く働く。寒いときには衣をまとい、火をおこして暖を取る。だから体は夏の暑いときに働くために変化していった。

人間は、飢えなくても体を動かす。何もしないと退屈する。この退屈するということが人間だけの為せる技といえる。ほかの事は動物もす。食ったり、走ったり、考えたりはもちろん、悲しんだり、怒ったり、あるいは、非常に希に笑ったりもするそうだ。しかし、退屈して体を動かすのは人間だけだ。

だから、人間は退屈することが大切だ。退屈することでいろいろな考えがもたらされた。年を取って、何もせずに一日過ごして退屈を感じなくなったら、人生も終局だ。人間らしくありたいと思えば敏感に退屈しなくてはならない。

退屈することは人間として成長するにも必要なことだ。子どもは退屈していろんな遊びを産み出す。考えるということも退屈を通じて鍛えられる。今の子供たちは果たして退屈するだろうか?テレビがありゲームがあり、サッカーや塾で忙しい。これで、人間らしい成長ができるものなのだろうか。

競争社会の制度設計 [社会]

現代は競争社会と言われる。競争が社会の活力を生み出し、結果的に豊かな社会を作りだすと信じられている。限られた資源を、能力のあるものに配分して有効に活用すると言うわけだ。格差も生じるが社会全体も恩恵をこうむるので格差を許容する考え方だ。

現に発展した国はすべて競争を取り入れているところを見ると、この考え方は実績で証明されているともいえる。ぬるま湯に浸かっていては進歩がないのももっともだ。そんなわけで昨今は格差に文句をつけることがタブーになっている感もある。負け組みのたわごとといわれかねない。

しかし、逆は真ならず。昔ながらの王様が威張っているところに発展はない。格差があればいいというわけではないのだ。競争はうまくルールを作ってフェアに行われなければならない。競争のルールをいかに組み立てるかの制度設計が政治の役割だろう。

そのような目で今の日本を見てみると、格差ばかりが目立ってフェアな競争が見られない。国会議員は世襲だし、世襲で富を引き継いだ「青年実業家」が跋扈している。詐欺まがいの金融操作で莫大な金を手にする。官僚になれば次々と天下りの渡り鳥が可能だ。会社でも実力が公平に評価されている話はあまり聞いたことがない。

日本は学歴社会でこれが唯一の公平な競争らしく見えている。どのような出自であれ、入学試験に通れば豊かな人生が開けるのは一種の「Japanese Dream」だったといえる。ところがこれにも最近は腐食が見えるようになった。これについては稿を改めて書くことにしよう。

受験の堕落 [社会]

議員は世襲、社長も世襲、タレントも2世が目立つ。そういったコネ社会のなかで、学歴主義は例外的に一応公平な競争を保ってきた。どんな金持ちの息子でもアホでは東大にはいれない。どんな出自であれ、勉強して一流大学にはいれば豊かな人生が開ける。これは一種のJapanese Dreamとも言うべきもので、数々の批判点はあっても、容認する人はかなりいる。

しかし、受験というものも時代とともに変化してきている。昔のように学歴だけでは就職できないなどと言われ、それだけ学歴の効力は落ちてきているといえる。なぜかというと、裏技が普及したために試験結果がその人の実力を反映しなくなったからだ。いろいろと試験改革がなされたことが逆に反映された形だ。

昔は、8科目5教科が国立大学の標準だった。理学部なら数学I、II、III、物理、化学、世界史、日本史、現代国語、古文、漢文、英語が必要で。私立でも最低3科目は必要だった。だから、これで合格するには、受験勉強をうまく計画する必要があった。自分の勉強時間の科目配分を考える計画性、自分に合った勉強方法を見つける創造性、勉強に耐える体力、計画を遂行する克己心、こういったものの総合力の結果が試験に現われたものだ。その努力の中で本当の学問に出会うことも出来た。

試験は記述式が当たり前で、難問奇問といった問題もでた。これに備えるために分厚い参考書を学ばなくてはならなかった。高校生が大学の先生が書いた難解な書物を勉強しなくてはならないのはおかしいといえばおかしい。四当五落という言葉があり、睡眠時間を5時間まで切り詰めたくらいでは、まだ落ち、4時間にしなければ合格しないといわれていた。過酷な猛勉強の意味だが、実際には健康を損ねないようにマネージすることも戦略の重要なところでもあった。

奇問難問を一発当てれば合格出来るという偶然性は、有る意味で合格者にバラエティを与えた。受験生としてもあきらめずに頑張る上で大きな助けになった。今の大学の様な同じ偏差値の同じ顔つきをした学生が顔を並べるのではなく、豪傑も生れた。昔の学生が良く勉強したと言うわけではないが、学生のバラエティが大学の卒業生の「実力」を鍛えた。奇問難問が批判されてセンター試験のような標準的なやさしい問題が推奨されるようになった結果、統一的、標準的な学生ばかりが合格するようになり、偏差値なるものが意味を持つようになった。

偏差値が受験界を支配するようになると、各大学は偏差値競争をするようになった。大学はその教育内容で評価されるべきなのだが、偏差値で評価するという風潮が強まった。同じ学生でも科目を少なく得意科目だけにすると偏差値はあがる。偏差値が上がれば力の有る学生が集まるという仕掛けで、どこも8科目を維持することが出来なくなってしまった。今はどうかと言うと、科目が非常に少なくなった。国立でも8教科のところはない。

科目さえ少なくなれば、裏技は発揮しやすい。最小の努力で最大の点数をあげるテクニックが塾や予備校で伝授されるようになった。自分で戦略を立てることもなく。塾や予備校のカルテにしたがって覚えて行けば合格する。そのほうが効率がよい。もはや四当五落の猛勉強は姿を消したし、分厚い参考書も必要がなくなった。どれだけ投資してよいカルテを手に入れるかが受験の当落を決めるようになってしまった。受験は学問とは何の関係もないものになってしまった。

予備校や塾のプランにうまく自分を合わせる柔軟性、意味の無い受験テクニックを疑問をもたすに受け入れる従属性、塾や予備校に支払いができる親の収入。こういったものが受験の決め手になってきた。たしかに、これでは学歴だけでは就職できなくなるのも当然だろう。

日本の唯一の公正な競争と思われた受験競争も落日を迎えている。

あえて北朝鮮を弁護する [社会]

北朝鮮が勧告の延坪島を砲撃して非難を浴びている。民間人にまで被害者を出している砲撃そのものに道理はないのだが、これを北朝鮮の徴発行為だというのはあたらない。

北朝鮮の砲撃は、北朝鮮沿岸での韓国・米軍の艦砲射撃に反発したものだ。確かに、艦砲射撃訓練は北朝鮮の領海外で行われたのだが、地図を見ればわかるが、北朝鮮の沿岸にも至近距離である。韓国の主張する国境線NNLというのが北朝鮮の海岸すぐそばに設定されているからだ。

北朝鮮が主張する領海は当然12海里でもっと広い。しかし、朝鮮戦争当時、陸地のことでせい一杯だった北朝鮮が、NNLをしばらく認めていたという経緯があるから、境界線論争では分が悪い。

海は広いのだから、NNLの南とはいえ、何も北朝鮮のすぐそばまで行って演習をすることはないだろう。こんなところで砲撃演習することこそ挑発行為だろう。北朝鮮は韓国の徴発に乗っただけだ。

天安事件の時はもっと酷かった。いりくんだ入江の奥のような所までは入り込んで米韓で演習するのだから、北朝鮮の神経を刺激するのは当然だ。北朝鮮も抗議のつもりで魚雷を一発ぶっ放した。相手の天安が掃海艇で魚雷対策がお手の物の艦種だから、まさか当たるとは思わなかっただろうが当たって沈没してしまったというのが真実だろう。
沈めるつもりで撃ったなら、成果として発表するだろうに、「やってない」などと言い訳するのはそれを物語っている。

金大中政権時代にはこのような衝突はなかった。李明博政権になってから韓国にタカ派が復権して来ていることのあらわれだろう。徴発しているのは韓国のほうだ。日本がこのような無益な衝突に巻き込まれないようにしてほしいものだ。


宮沢賢治は大食いだったのか? [社会]

雨ニモマケズ 風ニモマケズ雪ニモ
夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ

だれでも知っている宮沢賢治の詩「雨にも負けず」はこのように詠っている。問題は一日に玄米4合ということで、一合はだいたい大茶碗2杯だからかなりの量である。現代の日本でこれだけの米を食っている人はほとんどないだろう。しかし、メタボの小父さんでは詩の雰囲気に全く馴染まない。筋肉質であっても痩せて小柄な人物像を思い浮かべる。こういった人がそんなに米を食べたのだろうか。

実際、当時の人々はもっと米を食べていた。現代人は副食物が非常に多いから米が少なくても十分な栄養が取れるが、副食が「ミソと少々の野菜」ならカロリーさえ足りない。川柳に「居候、3杯目にはそっと出し」とあるが、肩身の狭い身でもご飯は3杯お代わりをしたくらいだ。

旧陸軍の昭和2年度での一日の既定配給量が5合6勺、これが平均的な労働者の消費量だった。下級武士の扶持米は5合x年間日数で計算されていた。だから「一日に玄米4合」は、むしろ小食と言うことを表している。現代の日本人は昔に比べると非常に米の消費が少ない。米あまりになるのも仕方がない。日本の農業は守るべきだが、なんとか米以外の食物生産に軸足を移す必要があるだろう。

ついでに米に関する数値を書いておこう。米の反(10坪)当りの収量は今で2.5石、江戸時代で1.5石、一石は10斗、1斗は10升、一升は10合。重量で言えば一升は1.5kg。他に俵という単位もあるが多分昔は2俵が1石で、今では30kg袋二個で1俵と勘定することになっている。



諸悪の根源は何か [社会]

「諸悪の根源」という言葉がある。これさえなければと言う時につかうのだが、民主党は官僚支配が諸悪の根源と言っていたが、政権をとってからは言わなくなった。たぶん始めからそうは思っていなかったのだろう。戦いのためには悪役が必要であり、それを官僚にしたにすぎない。大日本帝国は中国が大東亜の平和を乱す諸悪の根源だといっていた。中国政府が奥地に逃げ出してからは諸悪の根源を英米に切り替えた。こういった風に諸悪の根源を軽く扱われてしまうのも困り者だが、この年末、本当の意味での諸悪の根源を考えてみた。

これさえなければ、この一点を除けば世の中はすべて良くなる。そんな集中点があるあろうか。僕はそれを「下請け制度」だと指摘する。下請けとは上下関係を伴った関連組織であり、この「上下関係を伴った」というのが日本独特の制度で現在の日本をどんづまりに追い込んでいる元凶なのだ。

多くの労働者が年を越すのに苦労している。過重な労働にも関わらす賃金は低い。年金の支給は送らされ、定年と称する年令差別による解雇が横行している。さらに平気な顔で金持ち減税は保持したままで、消費税を引き上げ、低所得者からさらに搾り取ろうとしている。欧州の基準から言えば暴動が起こっても不思議がない状況なのに日本ではストライキすら起こらない。

こんな給料でも、下請けの人たちから見ればましだ。派遣はもっと酷い。そう思って我慢している。下手にさわいで下受けの立場に落とされたくない。正社員のポストから追っ払われたくない。そう思って我慢している。多くの会社は経営が苦しく、ストライキをしたところで、会社がつぶれるのが落ちだ。そう思って我慢している。

なぜ、ストライキが効力を持たないかというと、自社の都合で賃金を決められない会社があまりのも多いからだ。実際、多くの会社は、親会社よりも安い賃金をベースに、親会社に勝手に納入価格を決められてしまっている。親会社が金を払ってくれないことには賃金の上げようがない。本当の交渉相手は親会社ということになるが、もちろん別会社ということになっているから相手にもされない。争議を起こしても会社ごと潰されるのが落ちだ。

子会社は親会社の下で給料が安いことが当然とされる。派遣は正社員よりも賃金が安いことが当然とされる。賃金は身分によって決り、同一労働同一賃金の原則など有ったものではない。こういった奇妙な風習が日本の経済をゆがめ、輸出過剰にも関わらず円高になるという他の国ではありえないような事態を招いている。給料が下がり続けるという異常な事態もこのためのものだ。

下請け制度がなくなり、労使関係がカラッとした拮抗関係になれば、おのずと社会は正しい方向に変化していく。様々な馬鹿げた政治現象は消えていくだろう。だから「下請け制度」が諸悪の根源だと指摘するのだ。

上京して酔いつぶれた男の独白 [社会]

そりゃお前らはええよ。東京に出て、ええ暮らしして、ええ嫁さんももろうて。わしは長男じゃったばっかりに、一生山の中で土引っかいてしまいじゃ。

これでも学校じゃ勉強もよう出来たほうじゃ。お前みたいに家ほり出して東京に出りゃあ、夜学も卒業できたし、よっぽどええ暮らしもできたろうよ。

けどなあ。長男は家を捨てられんのよ。先祖代々こうやって田畑の守してきたし、誰かが親父の面倒も見なならん。長男に生れたんが因果やと思うて諦めるしかない。

村の大旦那じゃいうて威張ってたのは昔のことじゃや。米の値段は昔の半分に下がった。機械化やいうて高い耕運機買わされた。農業融資というて、結局は借金じゃ。肥料はどんどん高うなるし、家も修理せんと傾いてきよる。本建築の家は修理が高いんやと。

この20年何もええことはなかった。この先もどんどん悪うなるばっかりやろ。百姓では食うていけん世の中になるとはわかっとる。TPPじゃ言うて、わしらにとどめを刺しに来よる。わしの代で百姓も終いじゃ。

けんどなあ、わしは何のために家守って田舎に張り付いたんじゃやろ? 畑耕すのに絶対手は抜いとらん。百姓で食うて行けんようになったんは、やっぱりわしのせいか?長男として落第や言うて、御先祖様に叱られるんはわしか?。

なあ、教えてくれ。頼む。

間違いだらけの英語教育 [社会]

社会人は勉強が嫌いなようだが、英語にだけは熱心なようだ。というより、実際に勉強しているかどうかは別として、英語だけは勉強しなければいけないと思っているようだ。随所に英語学習の宣伝がある。そして、最近の英語は会話中心なのだそうだ。

昔は"THis is a pen."で始まっていた教科書は" Hi Michiko" で始まるようになった。会話中心とは文法をしっかり勉強しないと言うことらしい。はなはだ疑問である。外国人が外国語を習得するとき、一番たよりになるのは文法だ。用例や、語彙の使用習慣は母語でなければ蓄積が少ない。これを補うのが文法だから、文法こそが外国語習得の早道だと思うのである。

だのに、なぜ会話中心にしなければいけないのだろうか?日本人は英語の読み書きは上手でも会話が下手だといわれているのを聞いたことがあるが、これは明らかにウソだ。私はアメリカで7年暮らしていたわけだが、その間、いろんな人が日本から来るのに出会った。その中で英語が上手に書けても、会話は出来ないなどと言う人は実は見たことがない。

もちろん現地の人で読み書きは全く出来なくてもしゃべれる人はいる。自分の母語なら当たり前だろう。外国語を習得するのと母語を習得するのとは話がちがう。英語を話せる外国人で読み書きは出来ないというのは珍しいはずだ。日本語は「話し言葉」と「書き言葉」がひどく違っているから、なかには会話だけの外国人もいるかもしれないが英語は両者の差が少ない言語なのだ。

日本のエライ人が、アメリカに来て「会話はにがてでね」と言い訳をするのを何度も聞いたが、こういう人は英語でまともな文章が書けない。「英語がにがて」と言うべきところをごまかして「英会話がにがて」と言っているに過ぎない。読むほうも怪しいのだが、こちらは辞書さえあればいくらでもごまかせる。辞書で単語の意味さえわかれば、つなぎ合わせて意味を汲み取ることはできる。これは英語ができるとは言わない。きっちりと文法を理解して英語が書けるようになれば、会話は出来るのである。

おそろしいもので、こういったエライ人たちの言い訳にすぎない言説が英語教育を動かしてしまった。 日本の英語教育は文法を毛嫌いするようになっただけでなく、文法抜きの英語教育を小学生にまで広げるというのだ。英語に慣れるなどというが、日本人の小学校教師が教えるのだから、なんのことはないカタカナ英語の単語を覚えるだけだ。百害あって一利なしは歴然としている。

日本での英語教育はアメリカ人のように英語を使うのではなく、外国語としての英語を使えるようになることを目指すべきだ。決して文法をおろそかにしてはいけない。とりわけ英語の構文をしっかり把握しなければならない。

それでは昔の英語教育が良かったかというと、そうでもない。日本人が語学に弱い本当の理由があるとすれば、日本語の構文法・文法を知らないからだ。母語であることをいいことにほとんど文法なしで過ごしている。英語の文法に弱いのではなく、全ての文法に弱いわけだ。

現在教えられている日本語の文法と言うのをもう少し改善する必要もある。言語は日本語以外にもあるということが全く意識されていない。活用ばかりで、構文について何も言わないのひとりよがりの文法でしかないからだ。こういった日本語文法の不整備が外国語習得の大きな障害になっているようにも思う。日本語で文法が理解できてから、異なる文法の外国語を習得するのが正しい手順だと思う。

オレオレ詐欺と下請け制度 [社会]

一時ほどではないが依然としてオレオレ詐欺の被害が続いている。その金額たるや毎月何億円にも及び、活況はあきれるばかりだ。

なぜこうもオレオレ詐欺が続くのかと言えば、詐欺が成り立ちやすい世相もあるが、犯人が捕まらないことが第一の原因だろう。オレオレ詐欺の検挙率は実に低いというか、主犯はほとんど捕まっていない。

オレオレ詐欺で捕まるのは、銀行から現金を引き出そうとした手下とか、銀行口座の名義貸しをした手下ばかりである。これらの手下は犯罪の下請けをしたに過ぎず「共謀」には加わっていない。オレオレ詐欺の特徴は完全な分業下請化にある。

「ある日見知らぬ男から銀行からの現金引き出しを頼まれただけ」、「弁護士と名乗る男から、代わりに電話で振込先を伝えたくれと頼まれただけ」、「カラの通帳を売っただけ」というのが捕まった犯人の言い分だ。勿論、何らかの謝礼を受け取っており、自分の行為が犯罪に結びついている事を薄々は感じていただろうが、行為そのものに罪の意識はなかっただろう。目的が何かを詮索しないのが下請けの掟だ。共謀がないから主犯の捕まりようがない。

不法投棄も同じことだ。一流会社は廃棄物処分会社に毒物の処理を頼む。値段が安ければ怪しいと思うのだが、依頼に犯罪性は感じない。処分会社は小分けして下請けに出す。下請け会社は運送会社に運ばせる。運送会社は運ぶだけだ。荷受人は少量の事だからと中身を知らずに投機する。いちいち中身を詮索するのは業界仁義に反する。

住宅ローンの返済が滞れば、当然のこととして銀行はサラ金を紹介する。これでどのようなことが起こるかうすうす予想できても銀行員に罪の意識はない。サラ金は利子を積み上げ厳しい取立ての後、街金を紹介する。これでどのようなことが起こるかうすうす予想できても罪の意識はない。街金はここまで来たのは当人の責任として債権をヤクザに売る。そして水商売への転落と家庭崩壊があったとして、もちろんヤクザにも言い分はある。それぞれの段階に犯罪性はないということになるだろう。しかし、これを全て同一の銀行員がやればおそらく罪の意識は大きい。

現代社会は仕事が細分化されている。下請けして全体がわからなくなる。当然、犯罪性も消える。これには注意する必要がある。自分の仕事として紐を引っ張っただけでも、実は遠くで誰かの首を絞めているかもしれない。

入試の携帯カンニング---試験監督は何をやってたんだ? [社会]

大学入試に携帯電話を使う新手のカンニングが話題になっている。逮捕までされて大騒ぎした理由は、携帯を使い、質問サイトを使うハイテク性にあり、インターネットの悪用問題となっているからだ。盛んにインターネットと携帯の是非が論じられているが、これは少しおかしい。

携帯電話が試験中に使えるくらいなら、カンニングペーパーなんかわけもないことになる。試験監督が何も見ていなかったというしかない。これは試験監督のありかたという問題である。大学の試験監督は教員が駆り出されるが確か日当1万円くらいの手当てもついたはずだ。受験生30人に一人位の監督官が配置されているはずだから、手当てに見合って、真面目に監督すれば、携帯電話を見つけるくらいできたはずだ。

最初の段階で隠し持っていた携帯電話を監督に注意されていたら、この受験生は逮捕までされて一生を棒に振ることもなかっただろう。一人に何校も受験させ結果的に受験生を増やして監督を難しくさせるといった、昨今の受験指導のあり方も問題だろう。高校の授業がすべて終わり、受験勉強に専念できる貴重な期間を、いくつもの「滑り止め」受験に費やす愚を奨励する学校もおかしい。受験料収入を稼ぐためにやたら受験の機会を増やす私立大学もおかしい。国立でも前期、後期の2回やらねばならない。

法人化以後、大学にはいろんな事務仕事が増えてしまった。予算もやたら競争でその獲得には膨大な作業がいる。入試機会が増えたことも全部教員の負担となって、教員も多忙を極めている。監督の手抜きもしたくなるわけで、おそらく近年は手抜きが常態化していたのだと思う。どの大学でも同じ手口が使えたということがそれを示している。

被災証明と高速道路 [社会]

高速道路については、場当たり的な政策が乱発されている。もともと道路は公共のものであってだれでも自由に通れる性格のもので、通行料を取るというのは違法行為だった。地主が結託して勝手にあちこちに関所を設けては困ると言うのが考え方の原則だった。実際、中世には通行税を取ることが横行した、山賊などといわれる人たちは縄張りといわれる私的借地権を基に通行料を取った。これはまずい。

鉄道レールはもちろん鉄道会社が負担するのだから、当然道路費用は自動車会社が負担すべきものなのだが、自動車産業を保護する日本政府はそれを免除した。国が道路を作り、とにかく自家用車を買わせて、公共交通機関を衰退させる方策を取った。財源を確保するため高速道路に付いては「通行料金」を取っても良いことにした。それは、建設費を回収するまでの間の特例処置だったことが法令に明記されている。自動車にはすでに道路を整備するための自動車税が課されているからこれは二重取りになる。

通行料の考え方は後に拡大されて、他の高速道路の建設費用まで含めて「通行料金」にしても良いと言う利権を生み出した。この利権に群がっているのが道路公団天下り集団及びその取り巻きである建設会社群である。次々と高速道路を着工し、いつまでたっても建設費が回収できないようにしているから、やがては日本国中どこにも無料ではいけなくなる仕掛けだ。

こういった矛盾を含んだ高速道路に目をつけた民主党は高速道路無料化を政策の目玉にした。しかし、いざ政権を取って見ると高速道路の通行料は実においしい話だとわかった。無料化はだんだん後退し、ETCと抱き合わせにしたり、休日だけにしたり、とうとう地震にかこつけて「被災地に限る」などと言い出した。いやいや、もっと性格には「被災者に限る」という事にした。

被災者を厳密にせまく解釈すれば、津波で命を失った人に限られ、誰も高速道路を使えない。避難所にいる人たちと解釈しても、ほとんど利用は無いことになる。家を失った人に限っても、その人たちに自家用車で出かける余裕があるだろうか?要するに「被災者に限る」とは高速道路料金を取り続けるという意味なのだ。一方でトラックやバスは全部無料と言うのだから変な話にもなる。

しかし、被災者を広く考えれば停電や断水の被害を受けた人も当然被災者になる。茨城県などはこの考え方で県民全員を被災者にするらしい。このことで、東京やその他の地域からは当然不満がつのる。おそらく、あちこちで議論になるだろうし、事態の収拾は大変になる。

落しどころは「誰でも東北道は無料」ではないだろうか。この際、復興策としてその方が良い。ボランティアも観光客も皆で東北に行きましょう。東北旅行ブームにでもなれば、復興策として大成功だろう。

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高すぎる役員報酬 [社会]

株価低迷中のソニー会長が7億円、やっと震災から立ち直りかけている日産の社長が8億円。こんな大金を毎年もらう必要がどこにあるのだろうか。一回ならともかくも毎年こんなに多くを使いようが無いだろう。一方で日産の社員平均賃金は627万円だという。これはもちろん、ごく一部である正社員のことで、日産従業員のほとんどは派遣ないし非正規雇用だから年収300万円がいいとこだろう。

日産は自動車を作るということで社会に貢献し、その報酬として利益を得ている。だから利益は従業員全員で稼いだものだ。1人当たり400万円くらいの報酬は社会から見て妥当なものなのだろう。自動車がぼろ儲けということではない。全員で稼いだ利益をゴーンさんが独り占めするという正当性はどこにあるのだろうか?ゴーンさんは他の社員から取り上げて自分のものにしていると言うしかない。

社長だから、給料を決める権限がある。どんな高給であろうと権限の範囲だというのが一応の根拠だろう。誰がその権限を与えたかというと株主総会だと言うことになる。ではなぜ、株主総会はゴーンさんにそんな権限を与えられるのか?株主総会は全知全能の神なのか?

言うまでもなく会社は社会に存在する。株主総会であろうと社会の規範には従わなければならない。会社の内部のことと言えども社会規範で律されることは多い。少年を深夜に働かせてはならないし、労働組合とは交渉しなければならない。とてつもない高給は明らかに社会規範に抵触するのだから規制されるべきだ。

最低賃金法というあまりに安い賃金を規制する法律もあるのだが、実際は役に立たない。最低賃金をあまりに低く設定するからだ。同様にあまりにも高い役員報酬を規制するつもりなど今の政府には毛頭ない。言ってしまえば金持ちに操られている政府なのだ。大多数を占める年収二千万以下が賢くならねばならない。いつまでも騙されつづけて金持ち政府を維持する手はないだろうに。

確率の魔術 [社会]

博打の必勝法として「倍々法」と言うのが知られている。最初1000円掛け、負ければ掛け金を2000円に増やす。また負ければ4000円に増やす。こうして「倍々法」で掛け金を上げていけばいつかは勝つだろうからその時点で必ず差し引き1000円の利益がでる。

博打に必勝法があるなどと言う理屈を頭からは信じない友人を相手に、マッチ棒で実際に丁半のサイコロ賭博けをやってみた。2,3回毎に僕の勝ちとなり、その度にマッチ棒を一本ずつへらして行ったので彼は降参してしまった。大体は思った通りの結果だった。

実は「大体は」と言うところが問題なのだ。この原理で言えば誰でも博打で儲かることになるが、もちろんそんなことはありえない。彼がもう少し辛抱強く勝負を続けておれば、6連敗して僕が大敗になるケースもあったはずだ。確率は1/32だ。何回も続けて「半」ばかりが出ることはないだろうということで、小さな確率をゼロにしてしまうところに「倍々法」のごまかしがあるのだ。

実は原発についても同じことが言える。原発を停止すれば電気代が上ると言われている。原発の発電コストは火力発電、水力発電に比べて安いからだ。しかし、今回の原発事故の費用を入れれば、原発の発電コストが安いとはいえないことは明らかだろう。

原発の発電コストが安いなどという試算は、事故が起こる確率をゼロにしてなされたものだからだ。「小さな確率」は決してゼロではない。一度事故が起これば、その費用たるもの莫大である。期待値は確率X費用なのだから、費用が大きい場合には確率は低くとも、期待値は大きくなる。原発の発電コストは事故の対策費用も含めて見直さねばならない。

食品会社が衛生対策をないがしろにしてユッケを販売したのも確率の低い食中毒の対策費を無視して「儲かる」と判断したからに他ならない。機関投資家が潤沢な財力を背景にやっているのも倍々法と同じようなことで、サブプライムローンにつぎ込んで行き、破綻の確率がゼロで無いことを無視するものだ。破綻した場合は公的資金をつぎ込んでもらえるから当事者は役員報酬をしっかりもらって、痛くもかゆくもないから始末が悪い、


小さな確率をゼロにしてしまう魔術は世の中に蔓延している。


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「農業再生案」のお粗末 [社会]

ニュースによれば、「農林漁業の再生に向けた政府の基本方針・行動計画の原案が19日、明らかになった。海外との高いレベルの経済連携と、食料自給率(カロリーベース)を50%に引きあげる目標達成の両立をめざす方針を明記。農地の大規模化といった競争力の強化策を今後5年間で集中的に進める。」ということだ。

TPPで日本の農業が壊滅するという懸念に対する反論だろうが、なんとお粗末なことだ。外国の農業と対抗するには大規模化だという。ここ10年来破綻が証明された政策の繰り返しだ。5年間で水田の一軒当たりの面積を今の10倍にするというのだ。

10倍の土地を取得するには金が要る。政府が融資するということだろうが、返済の見込みがあるのだろうか。

20haなら収穫は5、6トンくらいになるが米価は10kg3850円だから売り上げで4000万円。これをもっと下げなくては競争に勝てない。農機具や肥料の生産コストが現在なら20haで2800万円。年間収益は1200万円で、地代を少しづつ返せることに計算上はなる。

しかし、10倍もの水田をどうやって耕すというのだ?一人で耕すのはどう考えたって無理だ。つらい農業労働を時給800円でやってくれるアルバイトなんているものか。いたとして、年収300万の労働者を3人も雇えば、農家の収入は300万で、とても多額な土地代借金を返せない。

日本の農業は大規模化ではなく、逆に分散型にすべきだ。各自は家庭菜園で自給自足を基本にするのだ。庭のない人には週末菜園を郊外に支給する。各自自分で農産物を作らねばならないから残業などとんでものない。家庭で菜園を作れるような働き方が標準になるだろう。PPTはもちろん不参加で農産物に関しては鎖国で良い。そうすれば、金をたくさん儲ける人は他人の農産物を買ってもよいが、それは相応に高いものになるだろう。金の力で低賃金の国から農産物を搾り取ること自体が非人道的な犯罪なのだ。
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沖縄と福島--その共通するもの [社会]

今年は福島と沖縄に旅行した。そしてこの2つの県に共通するものに気が付いた。どちらも札束で顔をはたかれてきた県なのだ。福島は原発、沖縄は基地だ。全国各地でのやっかいものを引き受ける他に生活の基盤を確保する見込みが立たない。

福島は、仙台を中心とする東北文化から見ても辺境になる。農業も沈滞するし、漁業も東京に直接水揚げする舟が多い。立地するものといえば幾つかの下請け工場位のものだ。子供たちが大きくなっても地元で大きな活躍をする夢がない。

沖縄も観光は目立つが特にこれといった産業はない。失業率は他県を抜いて高いし、収入レベルは低い。何を作っても消費地に遠いことはハンディーになる。やはり大志を持った子供たちは出ていくしかない。

先祖代代はぐくんできた地方都市のプライドを経状況が日々脅かす。それがコンプレックスに追い討ちをかける。なんとか金が落ちる工夫をしなければと焦らせる。その結果が原発の受け入れであったし、基地の存続だった。

沖縄では基地の弊害がわかっていた。それだから金に屈服して受け入れるか、あくまでも胸をはって基地を拒否するかの間で常に揺れ動いた。福島では原発事故でやっと弊害の本当の姿がわかり、今からの長い揺れ動きが始まる。

どちらも出発点は「受け入れる以外に発展の道がない」という意識だった。しかし考えて見れば、これは特にこの二ヵ所の問題ではないのだ。今や、将来の発展が見渡せる地域など何処にもない。かつて、豊かな農業生産を背景に栄えた地方都市はどこも凋落している。駅前商店街がシャッター通りになっていないところはないのだ。

新幹線や高速道路の発達、あるいは通信手段やインターネットの整備で、地方拠点の必要性は小さくなり、中央集権がますます進んだ。悪あがきは効果がなかった。工場誘致をしても、非正規雇用を作り出すだけだ。本社を持ってくるしか「発展」の可能性なんかないのだし、そんなことは中央集権の国で出来るわけがない。

事態に人々は反応しすぎている。大阪でさえ地盤沈下に追い込まれ漫才師やタレント弁護士のパフォーマンスに期待して騙されるくらいだ。地盤沈下がなんだ。経済沈滞がなんだ。どっちみち進む事態にやきもきすることはない。居直って、東京が人の住めない場所になるのを待つのが一番の道だろう。
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放射線を騒ぎすぎているか [社会]

福島の原発事故以来、多くの人が放射線障害に関心を持ち話題になることが多いが、専門家の間では放射線を騒ぎすぎていると感じている人が少なくない。20msvの被爆なら、がん発生確率が0.1%増えるだけで、これなら交通事故の確率のほうがよほど高いのだし、放射線だけが原因でガンになるわけではさらさらない。などという言説をよく聞く。

しかし、交通事故と放射線障害では比較にならない。交通事故は注意すればかなり防げるし、大きな原因なら死亡事故だが、小さな原因ならかすり傷だ。放射線は大線量であろうと、小線量であろうとガンになってしまえば一様に重症であり、ただその発生確率が変わるだけだ。言ってみれば無差別殺人事件に遭遇するようなものだ。

それでは、ということで、無差別殺人との比較をしてみよう。秋葉原事件では8人が殺された。東京都民800万人だから、誰かが無差別殺人の犠牲者になる確率は、百万分の一つまり0.0001%である。数字は小さいが確かに大問題になったし、これを放置しておくわけにはもちろん行かない。

この確率を人口200万人の福島県に引き移してみよう。政府は放射線被爆を20msv以下にすれば良いと言っている。20msvを許容することは秋葉原殺人事件の犯人のような人が25人、福島県のあちこちに出現して暴れまわると言うことに等しい。

もし、そんなことが起こればパニックとなり、人々はもっと騒ぐだろう。決して放射線が騒がれすぎているわけではないことは明らかだろう。
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これからの日本はどうなるか [社会]

年頭にあたって思いをめぐらしてみよう。これからの日本はどうなるだろうか?

国際環境はどうなるか。まあ、ドルは危機といわれてすでに20年、おそらくアメリカは例の如く唯我独尊の道を行くだろう。ヨーロッパは通貨危機でもめているが、結局のところなんとか落ち着くだろう。騒いでいるのは投機筋の思惑によるものだから、いつかは収束せざるを得ない。大きな流れとして変化があるのはアジアだろう。今後10年、アジアの新興国が力をつけて行くことは歴然としている。問題はそれに日本が対応できているかだ。日本企業は低賃金労働力を求めて海外への技術移転を進めてきた。政府もなぜか、補助金まで出して工場の海外移転を援助しているのだから驚く。タイの洪水で生産できなくなった部品を日本で作るには技術指導にタイから現場技術者を呼ばねばならなかったことが報道されていたがこれはかなりショッキングな出来事である。これからの日本は物が作れなくなる。

外交関係でも、アジアでは中国の存在が大きくなるであることは当然予想される。なにしろ世界人口の四分の一にあたる大きな国なのだから当然である。問題はそれに日本が対応できているかということだ。実態としては、いまだにアメリカ一辺倒の外交を続けている。中国の脅威とか言って軍事バランスを保とうとしている。その内容といえば中国を沿岸に閉じ込める線でのバランスだ。そんなことが遠い将来にわたって出来るはずがない。アメリカと中国の人口をみれば、むしろハワイ辺りにバランス均衡線があって当然なのである。とんでもない勘違いをしていたら、もちろんとんでもない結果を引き起こす。無駄な軍事費を使って国は疲弊していく。

国内事情を見てみよう。はっきり言って日本経済に大飛躍する展望はない。世界人口の40分の一しかなく、しかも少子化と言うことで減って行く。世界のGNPの多くを日本のような島国に閉じ込めておく理由は何処にもないだろう。限られた経済力をどう配分して、国民全体がある程度の幸せを保つにはどうすれば良いのこを考えるべきだ。しかるに、経済発展さえあれば全てが解決すると言いはって、しゃにむに経済発展を追及するのは身の破綻でしかない。放射能をあびるか、そのほかの公害物質を浴びるのが関の山だ。

あまりにも多くの問題を抱えているので最近は話題にならないが、日本がずっと抱えている問題は、一極集中の問題だ。人口はずっと都会に吸い寄せられてきた。このせまい日本であるにも関わらず、人口希薄な限界集落がどんどん出現している。地方都市の落ち込みも激しい。すべての本社が東京に集中しだしたために、大阪ですら地盤沈下をまぬがれていない。切羽詰って橋下のようなファシストに投票する破れかぶれな大阪府民が増えているのが現実だ。これからは地方都市がどんどん寂れてゆく。津波にあった三陸沿岸の復興なんてことはあり得ない。実は津波の前から潰れる道を歩んでいたのである。

国際的にも国内的にも日本はズタズタになる。TPPで農村が潰れ、そのために地方都市の商業も潰れる。派遣業法を骨抜きにした今の政府、あるいは前の政府にもどっても同じでりっぱなしで、仕事はどんどん非正規になっていく。非正規でないのは公務員くらいだということで公務員バッシングは続く。消費税の増税でますます暮らしは立ち行かなくなり、そのことが、生活保護財政を膨らまして、また財政負担が増える。いたちごっこだ。社会保障も削って行くと確実に犯罪が増える。スラムの発生が間近にせまっている。刑務所があふれ、刑務所・警察予算がさらに財政を圧迫するようになる。

みのほどをわきまえること。この転換が行えなければ、地獄へ一直線。そういうところに日本は来ている。あれほどの原発事故をこうむっても、呑気に復興などと言って済ましているが、何もしなくても掛け声をかけておれば自然に復興するわけではないのだ。いい加減に目をさませ。

三号被保険者は不合理か? [社会]

三号被保険者というのはサラリーマンの妻で働いていない人だ。
特に保険料を払わなくても、夫が保険料を会社と折半で払って
おれば、将来国民年金がもらえるしくみになっている。

これが、不合理だから3号被保険者の制度を廃止しようという事
が言われるようになった。働いている妻は、保険料を自分で払
わなければならないからだ。さらにこれが金持ち優遇というこ
とも言われだした。

2010年の国民生活基礎調査に基づく集計では、妻が3号の割合
は、夫の年収が900万円以上で73%だったのに対し、300万
円以下では32%にとどまった。

だから、三号被保険者の制度は年収900万円の「金持ち」優遇
だというわけだが、年収200万では、妻も働かなければ食って
いけないから、この調査結果は、まあ当然のことだ。

問題は、900万円以上を金持ちとしていることだ。なぜ金持ち
の境界をここに設定するのかの根拠は示されない。900万円
と900億円が同じに扱われているのはおかしい。

もし、これを年収3000万円以上の本当の金持ちで調査すれば、
三号被保険者はかなり少ないはずだ。経営者の妻は三号被保険者
ではないし、まあ大抵の場合は形式上妻も子会社の社長とか、
何とか協会の理事長に納まることになっているから2号被保険者に
なっている場合が多いからだ。

三号被保険者が金持ちには少ないことになり、制度は別に金持ち
優遇ではないことになる。
実際問題としては、多くの三号被保険者は国民年金を貰って
いない。夫と死別後、遺族年金を貰えば、自分の国民年金は
放棄せざるを得ないからだ。

こんな細かな年金のケチりよりも、もっと大きな金持ち優遇を
なんとかしてほしい。何百億の資産を持った金持ちが、税金を
払わず、ぬくぬくとしているのが現状だ。相続税はいくらでも
ごまかせるし、配当収入は最高でも20%にしかならない。

金持は、年金のようなゴミみたいな金額に、もともと
興味はない。年金制度は、壊れてもかまわないから、安上がり
にしたいだけだ。もし、本当に年金を改良するならば、夫婦
合算年収が900万円以下は、妻が働いても、年金負担を
払う必要がないとするべきだ。
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高層マンションと闘う本 [社会]

リーマンショックからしばらく経って、まだ好況感は無いが、景気のサイクルから言うと、そろそろ多少は上向きになってきても良い頃だ。あの時はまだ景気が良かったと後から見ればわかると言うのが近年の景気動向だ。

一時影をひそめていたマンションの新築工事がまたあちこちで見え始めた。周りの戸建て住宅を日陰にして我が物顔で林立することだろう。大体において、建築関係の法律は業界意向に従って出来ているから、日本には住民を保護する法律が無く、マンション業者の権利ばかりを守る法律が横行している。

極めて業者寄りの法律の中でも、マンション会社は法律を超えて傲慢に振舞う。「こんにちは裁判官ー高層マンションと闘ったおばさん隊の記録」を読むと、裁判で争えば次々と違法行為が発覚してくることがよくわかる。しかし、この本の戦いでも、内容的には勝っているのだが、結局のところ時間切れで敗退することになる。

こういったマンション建設の被害者たちが反対運動を起こしても、大抵マンション側の勝ちになるようで、web検索をかけてみても、住民側の勝利という報告はなかなか見つからない。しかし、これにはもう一つ理由がある。裁判で、住民側が勝っても、和解となるから、必ず和解条件としてHPの閉鎖が入ってくる。住民が勝ったHPは無くなる。だから、ネット上にはあたかも必ず住民が負けるかのような常識が出来ている。

実際には住民が勝つことも多々あるのだ。建設が阻止された高層マンションはかなりある。そんな報告の一つ「高層マンションにSTOP!」と言うのがあった。小説として書いてあるが、現実のことだとはすぐにわかる。マンション業者や、場所も置き換えてはあるが見当がつく。なかなか面白い。

http://www.mybookle.com/indiv/bookle/2850

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東京オリンピック誘致に反対 [社会]

東北大震災の被害復興に悪戦苦闘しているにも関わらず、石原知事はまたぞろオリンピックを東京に誘致すると言い出している。リストラで地方の支店が閉鎖されても本社は残る。格差が増大しても金持ちが多い東京の税収はリッチだ。殿様の贅沢の行き着く所がオリンピックらしい。

言うにことかき、「震災復興に役立つ」だなどと、勝手なことを付け加えているのが嫌らしい。なんでも「復興に役立つ」と言えばいいものじゃやないぞ。

NHKのやらせ番組では「復興に役立つ」理由を、3兆円のお金がオリンピックで動き、経済を活性化するので、東北の復興に役立つなどと説明して、全員が納得していた。そのために必要な予算は5000億円に過ぎないから是非国庫からだすべきだという主張だ。5000億の見せ金があれば、民間から連鎖的に3兆円の金が出てくるそうだ。これはもはや詐欺の口上だ。

オリンピックで経済が活性化するなら、ギリシャの経済破綻はあるはずがないだろう。実際に起こることは、5000億で一部の、もちろん東京の、建設会社が大もうけして内部留保を増やすだけで終わる。東京のホテルなんかは、おこぼれにあずかるだろう。公共工事で経済活性化は使い古された手法で、もう効き目がなくなったことはこの10年が証明している。ましてや、それが東北にまで波及するはずがないだろう。それよりも復興支援の5000億をオリンピックに取られる痛手のほうがはるかに大きい。

復興に必要なのは東北で正社員が雇える職場であり、オリンピックの臨時ガードマンを東北で募集することではない。東京の会社の景気が善くなろうと、東北の田舎には何の関係もないのだ。

消費税を貰う会社と、赤字でも払わされる会社 [社会]

野田内閣は熱心に消費税の値上げをやろうとしている。政権交代してやりたかったのは消費税の値上げだったのか。どうせ一回しかできない首相なのだから、もう少し世の人のためになることをすれば良いのにと思う。

消費税で消費が落ち込み、さらなる経済の悪化が予想されるが、財界はむしろ消費税の値上げを歓迎する向きがある。なぜなら、財界主流の大会社は消費税を「貰う」立場だからだ。えっと驚く人もあるだろうが、消費税は取られるばかりではなく、実は貰う会社もあるのだ。

例えばトヨタ。自動車を作るのに材料費・設備経費が一台当たり100万円としよう。人件費は50万円を派遣会社に払う。200万円で売ると50万円の大もうけなのだが、売り先はアメリカだ。この場合、税金を申告するとどうなるか? 消費税は日本国内での消費に対してかかるのだから、トヨタは払わなくて済む。それだけではない、設備・材料には10%の消費税が含まれているのだからこれを返せと言うことが出来る。人件費も派遣の場合は材料費と見なされるから、一台当たり15万円をトヨタは政府から貰うのである。消費税が増えれば増えるだけもうかる。

中小企業の場合こうは行かない。震災で打撃を受けた三陸の蒲鉾屋の場合、月に仕入れる材料と一ヶ月当たりの設備経費が同じく合わせて100万円。従業員2人に合計50万円の給料を払う。震災のために出来た借り入れの金利が50万円。製品を200万円で売れば利益はなく、とんとんなのだが、そのときお客さんから消費税20万円をもらわねばならない。納入先の大手スーパーは強気だし、製品を腐らすわけには行かないので泣く泣く十万円の値引きをすれば、結局10万円の赤字になる。この場合、消費税がどうなるかと言うと、200万円から差引かれるのは、100万円だけだ。直接雇用の場合給料分にも消費税がかかる。赤字なのに政府に10万円を納めなければならない。銀行にも利子の10%である5万円を取られる。

赤字でも取られる会社と、大黒字でも消費税は貰う会社、その格差は大きい。苦しい会社がますます疲弊する税制では敗者復活が無くなってしまう。消費税とはそんな弱いものいじめの恐ろしい税制なのだ。
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すぐにも出きる「日本を救う改革」 [社会]

不況は続き、財政は緊迫している。消費税を値上げすればさらに景気は冷え込むだろう。そんな日本を救う改革がすぐにでも出きるとあればやるべきだろう。

不況が続く原因の一つは内需がどうにもならないことだろう。商店街はシャッター通りだし、観光地もレストランも週末だけはにぎわっても平日は閑古鳥の鳴くところばかりだ。非正規雇用が多い理由のひとつに、営業に波がありすぎることが挙げられる。

週末にだけ人出があるというのは、実に困ったことで、そのために施設も大きくせねばならず、人も人数がいる。この無駄が営業収支には大きな負担だ。

日本人はもっと休みを取らねばならない。アメリカと比べて見ると、年20日の週休休暇などの労働条件は、ほぼ同じだが、消化率が全く違う。アメリカ人は殆ど年休を消化しているが日本では使わないのが普通だという変なことになっている。

アメリカでは、不消化の年休はあとで賃金に上乗せしなければならないことになっている。だから年休を取らない社員は、会社に金を要求する社員と言うことになる。褒められたことでないのだ。日本のように消化しなかった年休は会社へのサービスなどにならない。

フランスなどでは、休暇の消化は強制的で、年末に消化していない人は会社に入れてくれないと言う。日本でも年休の消化を強制的にするべきだ。もともと与えられている年休なのだからどこの会社でも文句は出ないはずだ。アメリカ方式、フランス方式、どちらでもいいから年休の確実な消化をやるべきだ。

すべての人が年20日休みを取れば、町の賑わいは大分変わってくる。観光地の平日も変わったものになるだろう。消費は増え、雰囲気的にも景気は必ず上向きになる。

それだけではない、会社でも部長不在の日が20日もあるし、課長不在の日も20日あることになる。こうなると、権限の委譲が進み、社内の動きが機動的になる。偉い人の顔色をうかがうことなくプロジェクトは進んでいくしかない。会議ももっと実質的なものになるだろう。

是非やるべき日本の改革の一つはこれだ。

日本型福祉社会 [社会]

湯浅誠さんの話を聞いた。

貧困問題、あるいは非正規雇用の問題で、怒りをぶちまけるのかと思ったら、割と冷静な日本社会の分析だった。
日本型と呼べるような「福祉社会」があるとは思っても見なかったのだが、言われて見れば荘かもしれない。

アメリカにはない制度として、通勤手当とか家族手当があるし、退職金なんてのもある。給料は単なる労働の対価ではないのだ。盆暮れのボーナスもそうだ。こういった手当ては、従業員の生活を考えた一種の「社会福祉」だというのである。確かに、単に労働と賃金を交換しているのではない。

これが、本来国が責任を持つべき社会福祉を押さえて来た。家族の面倒、盆暮れの付き合いなどの社会生活は、国ではなくて会社が見てくれる。だから、会社を優遇することが、福祉につながるという暗黙の了解ができた。

ところが、最近は非正規雇用が増えて、こういった会社を通じての社会福祉からはみ出てしまう人が多くなった。これが問題だというのが湯浅さんの論点らしい。

私は、こういった変形社会は、長い封建制のあと、明治維新クーデターで、ブルジョア革命を経ずして、近代化が行われたせいだと思っている。日本の労使関係は、封建時代の主従関係つまり、御恩に対して奉公で答える関係を引きずっているのだ。労働と賃金を交換しているのではない。勤勉に働くのは会社に対する忠誠心を示すものであるから、サービス残業などと言うものが発生する。

問題は、この奉公に対して、もはや企業は御恩で答えることをしなくなったと言う事だ。実力主義で働き以上の賃金を払うことは決してしない。それどころか、非正規に切り替えてあくまでも人件費を引き下げようとする。いずれにせよ、「日本型福祉社会」などと言うものは過去の遺物になってきている。

だから、本当の意味での国の福祉が必要になってきているのだ。これは本気で取り組まなければいけない。少子化はどんどん進んでおり、日本民族の存亡の危機と行っても良い。防衛や国威発揚に無駄金を使っている余裕はないのだ。

これじゃダメだよ、日本の商品 [社会]

もう何十年も前の事だが、僕がアメリカに初めて行った時、中古の車を買った。フォードグラナダV8、5000CCのでかい車だったが、これが安かったのだ。ふんわりと、柔らかな乗り心地で、室内は防音が効いてまるっきり静かだ。こんな車は、ガソリンも食うし、日本ではとても乗れない。

丁度そのころ、ホンダやトヨタの車がアメリカにも進出し始めていた。「日本の車はいいね。ガソリンも食わないし、故障も少ない。」こう言ってほめる人が多かった。彼等が特に気に入ったのは「スイッチやノブなどがあるべきところにある」ということで、使用者のことを考えたきめの細かい配慮が日本車の決め手だった。

話が、アメ車の日本への輸出が少ないことに及んで、アメリカの車には日本のドライバーにこれっぽっちの配慮もないことを話すと皆一様に驚いていた。座席はやたら大きいし、車高が低くて未舗装の道は走れない、極めつけは左ハンドルだ。アメリカの友人たちは「これじゃ、輸出なんてできっこないよな」と驚いていた。アメリカの車メーカーは、高性能な車が売れないはずはないと傲慢に構えていたのだ。

案の定、それから数年して、日本車が全米市場を総なめにして、アメリカの自動車会社が危機に陥る事態が起こった。

日常使う製品と言うものは、会社によってそれほど変わるものではない。ほんのちょっとした気配りが違いとなって現れるのだ。アメリカでは鉛筆削りは何十年も同じものが使われている。これに対して日本では毎年ちがうデザインのものが出て、自動的に鉛筆を抑えたり、削り終わったら止まったり、削りかすが簡単に捨てられたり、様々な工夫が見られる。名もない中小企業の現場技術者たちが、日々努力を重ねてこういった気配りの技術を支えていた。

ところが、今はどうだろう。リストラで開発技術者はどんどん解雇され、現場は派遣やアルバイトばかりになっている。東南アジアへの輸出は、フィリピンにもベトナムにも同じ物が送られている。日本製品は品質がいいから、どこでも売れるはずだという傲慢さそのものではないか。

東南アジアでは韓国や台湾の製品の評判が良い。それは、日本に変わってあのきめ細かな対応をやっているからだ。車にしたって、日本車の場合、パンク修理のしやすさとか、未舗装道路も走れるショックアブソーバーだとかについての配慮は見られず、ただ豪華さを強調するパンフレットばかりだ。

これでは日本製品は売れなくなる一方だろう。今はまだこういった変化が目立っていないが、そのうち誰もが頭を抱える事態が起こる。かつてアメリカが歩んだ道を、さらに下手な歩き方で進むのが日本であっていいのかと言いたくなる。

プリウス乗るなら軽に乗れ [社会]

不況の中でも儲かりつづけるトヨタ。自動車販売ではプリウスが1人勝ちの様相だ。燃費が良いというのが買われる理由であり、事実、軽並みの燃費を達成している。しかし、プリウスの低燃費は技術でもなんでもない。要するに軽のようにトロトロ走れば軽並の燃費が得られるということだ。エンジン自体は1500ccなのだが、頻繁に停止して0ccにするから平均は軽並になる。10モードのこんな走り方はもちろん軽でもできる。

従来、高級車は大容量エンジンと相場が決まっていた。内装や、遮音性に大きなエンジンを強制的にくっつけて売っていたのがトヨタだ。プリウスという発電機つきEVを売り出してみて、高級車に乗る人のほとんどが、トロトロ走ることで満足する人たちだと言うことがわかったと言うことだ。これは一つの発見ではある。実際、軽の高級車を作れば安上がりで、乗り心地もよく、値段ももっと安いはずだ。プリウス乗るなら軽に乗れとはそういうことだ。

ホンダのインサイトの方は、モーター付き1300cc車だ。当然燃費は1300cc車並にしかならない。どこがハイブリッドかというと、加速が違う。上り坂での追い越し等のとき、普通の1300ccとは違う力強さを発揮する。2000cc並に走れる1300cc車がそのコンセプトだ。プリウスでも同じように加速が得られるかというとそうではない。大型の電池を積んで1.66tもの重量ではきびきびした動きは出来ない。出だしの低速域を除いてプリウスに加速と言う言葉はないと思ったほうがよい。インサイトはプリウスよりも200kg少ない1.46tである。

重要なのは、インサイトは乗って楽しい車だということだ。レスポンスが良く、FFらしい運転者と一体になった走りを感じられる。これまでに蓄積されたFF車の良い点がフルに生かされている。IMAエンジンの効用だ。ところが、プリウスに乗っている人が一様に感じるのは「運転が面白くない」ということだ。なぜかと言うと、重たい電池のためにFFでありながら重心が後ろになり、バスを運転しているようなレスポンスの悪さが出てくるからだ。乗っていると言うより、乗せられているという感覚になる。

そんなわけで、私は来月からいまどき大変珍しいインサイト愛用者になることにした。車の選択と言うのは人の考え方である。エコを実現するために、節電をひたすら道徳的に主張する人はプリウス、太陽光や地熱など新しい技術に依拠した開発を主張する人はインサイトとなる。偽善でなく本当に道徳的節電を主張する人は、大型テレビを見たり、車などに乗ったりしないものだ。

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