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「集団的自衛権」のわかりにくさ [政治]

「集団的自衛権」をめぐって解禁だとかの議論がされているが、「集団的自衛権」などと言う言葉の意味がわかりにくい。国連憲章の51条には、加盟各国に集団的・個別的な自衛権を認める主旨が書いてあるのだが、この国連憲章は1945年6月、まだ連合国と日本の戦争が行われている時に出来たと言うことに注意する必要がある。国連は日独伊と対戦する連合国を母体とするもので、国連自体が一種の軍事同盟であったのだ。当時としては、国連非加盟の国が加盟国に戦争を仕掛けてきた場合を想定せざるを得なかった。ほとんど全ての国が国連加盟となった今では、加盟国の一部が軍事同盟を結んで他と対立することは、国連の主旨に反するだろう。

そんな「権利」をわざわざ問題にしているのは、おそらく日本だけだろう。もともと「個別自衛権」が、自衛隊を合憲とするために国連憲章に飛びついて引っ張り出した権利なのだが、これまで政府の憲法解釈の根幹をなしてきたものだ。今度はその根幹も取っ払ってしまうというのだから、法律論としては、もう、無茶苦茶だ。

日本国憲法は1項と2項に分かれているが、1項は国際紛争を戦争で解決しようとしないことを表明している。アレキサンダー大王の遠征当時は、国際問題は全て戦争で決着をつけるというのが常識だったが、現代においては、どの国もそんなことは言わない。パリ条約以来、戦争で決着をつけると言う問題の解決法は国際的に禁止されている。だから、第一項はどの国でも受け入れていることだ。日本国憲法の特色は第二項にある。

第二項は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と軍備を持つことを禁じており、戦争をやろうとしても出来ないように第一項を具体的に補強したものだ。ところが、冒頭の「前項の目的」と言う言葉に着目して屁理屈が考え出された。第一項で達成しようとしている目的は、他国に侵略する侵略戦争を防止することだから、自衛のための武力はここで言う戦力にあたらず、禁止されていないというのがその理屈だ。

自衛隊が発足したころは、戦力とはならない程度の小さな武力と言っていたが、軍事予算が肥大化すると、そうも言えず、武力の大きさではなく、その行動規範が戦力でなければ良いというようになった。戦力を持っている米中も第一項は受け入れており、侵略戦争をやってはならないという規範はもっている。アメリカ軍は「国防」省に属し、米国防衛のための戦力と位置づけている。戦力と自衛力のちがいが、一体どこにあるのかということが当然問題になる。

そこで考え出されたのが「集団的自衛権」という概念だ。日本の自衛隊は日本本土が攻撃された時に自衛するためのものであって、海外権益が侵害されたとか、同盟国が攻撃されたとかで出動できない。他の国の防衛戦力というのは、直接に侵攻されなくとも、海外施設を犯されたり、同盟国が攻撃されたりしても発動される。つまり、「集団的自衛権」を持つものが戦力であり、それを持たなければ戦力でなく、憲法違反にならないとしたのだ。

実際、集団的自衛権は過去において侵略に用いられてきた。傀儡である汪兆銘政権が、南京政権や八路軍に攻撃されているので、集団的自衛権を行使して日中戦争を引き起こした。同盟国への攻撃に対抗する自衛戦争と言うわけだ。およそいかなる侵略戦争も祖国防衛のスローガンを使わなかったものはない。集団的自衛権を発揮するといえばどのような戦争も可能になる。

世界第4位の軍備を戦力ではないとするのは屁理屈ではあるが、集団的自衛権をもたないというのは、侵略戦争を防止するひとつの歯止めにはなっていた。今、安倍内閣がやろうとしている「集団的自衛権」を持つという解釈改憲は、日本を底無しの泥沼に引きずり込む。これをやってしまえば、もはや何の歯止めも無く、自衛隊は戦力ではないという屁理屈さえかなぐり捨てることになる。

日本が立憲国家としての体裁さえ捨てて、憲法の完全無視というナチスのやり方に進めば、行き着く先は大破綻でしかない。
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