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小笠原が日本領土なら、尖閣は中国領土 [尖閣]

辺境の島がどのようにして日本領になったのかは、尖閣の問題を考えるときに、大切なことだと思う。実効支配していることだけを強調するのは、明らかに、竹島や、歯舞に対する言い分と矛盾する。歴史的に事実を見ていく必要があるだろう。

小笠原諸島はスペイン人により発見されたようだが、定かではない。日本の歴史としては、1593年に小笠原貞頼が発見したことが『巽無人島記』に記述されている。しかし、小笠原の子孫がこれをもとに領有を幕府に願い出た結果、『巽無人島記』は偽書であると認定され、処罰を受けることになった。秀吉時代に家康を将軍とするなどのちぐはぐな記述があり、小笠原貞頼の実在も否定されたからだ。だから、これは根拠にならない。

しかし、1727年に起こったこの事件がきっかけで、伊豆の南に楽園の島があるという伝説が生まれた。出島のオランダ商館を通じて噂はヨーロッパにも広まり、多くの国が小笠原に興味を持つ元にもなったし、現在の名前もこれに由来している。

最初に、小笠原の領有宣言を出したのは英国で、1827年に小笠原を探検したグンタンブロッサム号が報告している。英国ジョージIV世の名に於て諸島の領有を宣言した銅板を設置した。この銅版は、現在オーストラリアの国立博物館にある。島内をいくら調査しても日本の痕跡は見出せなかったから、「無主の地」とした。手続き的には完璧であったが、そもそもこの海域に来たのは日本から広まった楽園の島を目指したものであったから、島の調査だけで無主の地とするのは正しくない。『中山傳信録』で尖閣を知った日本と同じ立場だ。

この宣言は、その後少なくとも20年に渡ってどこからも異議が唱えられず、確定したかに思われた。しかし、「無主の地」であることの確認が不十分であったとして、この領有宣言は後に否定されることになった。尖閣での、歴史的経過の検証を拒否して、とにかく最初に領有宣言した国が権利を持つのだという論理は、小笠原の領有と矛盾する。

1826年にウイリアム号でやってきた2名のイギリス人が定住したから、イギリスの領有宣言は一応実効支配も伴っていたことになる。その後、アメリカがハワイ人を送り込み捕鯨基地、給水基地として使ったことが挙げられる。これは、尖閣で古賀氏がアホウドリの採集を行ったことに匹敵するが、日本はこれも否定する立場だ。1853年に、ペリーが浦賀に来航したときには、小笠原には定住するスペイン人やハワイ人がおり、自治の首長としてこの時はハワイ人を任命している。

では、何が日本の領有の根拠になったかと言えば、延宝3年(1652年)嶋谷市左衛門等の探検である(注)。これが、グンタンブロッサム号よりもはるか前だったことが最大の論拠になった。この探検は、幕命によるものではあったが、すでに鎖国時代となっていたため公開されておらず、幕府の公式文書も無い。

嶋谷家に私的文書が残るだけだったが、林子平が、1785年に「三国通覧図説」を出版し、この中で嶋谷家文書をもとに小笠原領有論を展開したことが決め手となった。「三国通覧図説」はフランスのレミューザやドイツのクラプロートによってヨーロッパにも紹介されたからである。英国の領有宣言よりも「三国通覧図説」の出版が、53年早かったのである。1876年に各国がこれを認めて、日本領であることが確定した。

これより少し早く、1769年に伊藤東涯も「輶軒小録」で嶋谷市左衛門の探検を書いてはいるが、随筆集の一部であり、外国には伝わらなかった。

「三国通覧図説」の内容が信用に足る立派な文書であることが、小笠原の領有の論理的な根拠なのだが、その「三国通覧図説」によれば、尖閣は中国領である。日本政府は、「三国通覧図説」は、記述の誤りが多く、信頼できないという立場だというが、それは小笠原と完全に矛盾する。

領土問題というのはなかなか理屈だけで解決しない。結局、日本の主張が認められることになったのだが、主張の正当性というよりも、英米が牽制し合い、折り合いをつけた落としどころになってしまったというのが本当の所かもしれない。明治の始めには、日本や中国が開港してしまったから小笠原の中継地としての必要性が薄らいでしまったこともある。温暖で緑豊かな島は魅力的なものだった。それまで日本人が住んでいなかった小笠原に、八丈島からの移民などを送り込み、実効支配を確立し、欧米系居住者を帰化させたりもした。欧米系から、アジアの国へと領有が移る珍しい例だろう。今でも小笠原島には、カタカナ表記の戸籍がある。

(参)ロバート・D・エルドリッヂ「硫黄島と小笠原をめぐる日米関係」
(注)嶋谷市左衛門の船は「富国寿丸」と名づけられ、小笠原に神社の祠を建てその隣には「此島大日本之内也」と書いた立て札を設置したと言う言説が多いが、これについての原資料は明らかでない。「大日本」という表現は、幕末から明治に始まったので、江戸初期には無かった用法である。幕府の「人無島渡海之覚」という文書には、こういった記述は出てこない。もちろんこの立て札は現認はされておらず、少なくとも英艦が来たときには跡形もなかった。

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コメント 2

いしゐのぞむ

小笠原島領有の根據は「三國通覽圖説」ではなかったことが、近年の研究で分かって來てゐます。詳細は新刊拙著『尖閣反駁マニュアル百題』(集廣舍刊、amazon等有り)をご覽下さい。また「三國通覽圖説」は臺灣島を黄色に、尖閣を桃色に塗ってゐます。臺灣附屬島嶼ではないことを示す史料です。チャイナは臺灣附屬島嶼か林子平か、どちらか一方を放棄せねばなりません。
by いしゐのぞむ (2014-09-14 13:45) 

kodomo

「三國通覽圖説」は欧米によく認知されていた点で、領有根拠に大きく寄与しています。しかし、多分一番の決め手になったのは、米英にとって、領有の意味が薄れてしまったいうことですね。

尖閣は大陸棚にあり、台湾の属島ではあり得ません。私は中国の主張を代弁しているわけではありませんのでお間違えなく。
by kodomo (2015-09-19 17:57) 

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