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筑波山神社の謎 [旅行]

東京から手軽に行ける山ということで、つくばエクスプレス(TX)が出来てから筑波山へ行って見る人が多くなった。茨城の観光資源としても貴重なのだが、どうも設定がまずい。おしゃれな雰囲気がなく、うんざりするような土産物屋がならんでおり、公園としての整備がいまいちなのだ。山全体が筑波山神社の私有地なのだから、これはどうしようもない。まあ、乱開発を防いで、自然を残したいという意味からはこれも、まったく悪いことではないだろう。

筑波山に行けば、当然、ここの神社にも立ち寄ることになる。私は筑波山神社には大きな謎があると思っている。

一つは、その格付けが非常に低いことだ。かなり、立派な神社に見えるし、歴史も古いと考えられるのに、神社格付けでは、非常に低いところにある。戦前の神社は、国家が管理した社格制度があった。官幣社、国幣社、諸社と分かれていて、それがまた官幣大社とか官幣小社とかのランクに別れていた。で、筑波山神社はどのような位置にあったかというと。諸社の中の「県社」と言うものである。ちなみに官幣社、国幣社は全国に223もある。筑波山神社はそれ以下なのだ。

この理由は、ある程度わかった。簡単に言えば筑波山神社は明治の初年にでっちあげた新参神社だったということだ。筑波山には筑波女神社、筑波男神社と言う山岳信仰の素朴な神社がそれぞれの山頂にあった。しかし、筑波山で隆盛を誇ったのは中腹にあった護持院という寺だった。日本の寺は、神仏混交で境内に神社を持つ。護持院にも、春日神社・日枝神社・厳島神社があったが、これらは、仏教神で寺を守護するために置かれたもので、山上の山岳信仰神社とは関係がない。

現在の筑波山神社は寺をもとにしたものだったのである。筑波山護持院は、将軍家加護で関東で最も格式の高い寺であり、5万石の領地まで与えられていた。ところが明治になって、将軍家がなくなるとなると、この5万石も微妙な事になってきた。

廃仏毀釈の機運に乗るためには神社に転換するのがよさそうだということで、内部の利権争いもあったらしいのだが、結果的に山上の神社もあわせた事にして筑波山神社を立ち上げた。護持院の僧侶が、髪の毛を伸ばして、神職に転職したのである。しかし、寺の本堂や伽藍を壊したりの努力もむなしく、結局のところ5万石はなくなってしまった。

もちろん、神社の公式見解ではもともと3つが神仏混交だったというのであるが、神仏混交は境内にあった神社とのもので、山岳信仰である男体・女体とは別物である。伝統を無視して3つをあわせるなどということは、宗教的には何の脈絡もないことになる。神職も、ど素人ばかりだし、これでは、高く格付けのしようがない。だから低い格付けになってしまったのである。

しかし、格付けは必ずしも宗教的観点から行われるものではないので、もっと他の理由があるかもしれない。「生類哀れみの令」につながる護持院暗闘の歴史は、それはそれで、面白いものだ。

もう一つの謎は、その建物だ。筑波山神社は、神社らしからぬ伽藍を備えており、どう見てもお寺の建築だ。廃仏毀釈でお寺が神社に変換されたというならこれも不思議ではないのだが、実は護持院の大御堂や三重塔、六角堂などの建物は全部壊された。仏像や鐘なども、あちこちに散逸している。明治になってから、跡地に新たに神社として建てたのに、このお寺様式の建物はどうしたことだろう。

仏教存続派と神社転換派に分かれて争い、妥協点として建築様式を仏式にしたとか、宮大工が仏式建築しか知らなかったとかが考えられるが、どうもそのような痕跡が見当たらない。調べては見たが、この謎はいまだに解けないままである。神社の人に聞いても見たが、何も記録はないとの事だった。五万石の利権争いがからむ神社設立のごたごたにについては、語りたくないだろう。

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