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海外派兵は憲法解釈の問題なのか [社会]

安倍内閣が閣議で、集団的自衛権を行使する決定をした。我々は、世界唯一の平和国家であることを誇りにして来たが、7月1日はこの誇りを踏みにじられた屈辱の日として記憶される。

集団的自衛権の議論は、憲法の解釈だとされているが、不思議なことに、議論の中で憲法の条文が全く出てこなかった。普通、解釈というのは条文の語句をどう理解するかによっている。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」のどの語句をどう理解すれば、海外派兵が出てくるのか。自国が攻撃もされていないのに、同盟国を助けるために他国を攻撃することが、どう交戦権の否定で成り立つのか。要請があれば、地球の裏側まで行って戦うのが、戦力でないとどうして言えるのか。そういった議論は皆無だ。

学者集団である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」が集団的自衛権の容認を答申したというが、その答申の中にさえ、条文の語句は出てこない。そもそも安保法制懇は安倍の私的諮問機関であり、なんの権限もないものだ。ほとんどのメンバーは政治学者であり、憲法学者は入っていないのだから当然とも言える。

なにを議論したかと言えば、「どういうように解釈したことにすれば都合がいいか」でしかない。正しい解釈は何なのかという観点は最初からないのだ。つまり、これは解釈の変更ではなく、憲法をどれだけ無視するかのレベル変更というのが実際だ。抜本的に憲法無視が進むことで、日本は世界唯一の平和国家から、世界唯一の憲法無視国家に転落したのだ。

今や日本は、権力者のやりたい放題で、法律を無視できる国だということだ。日本国憲法第25条「社会福祉 、社会保障および公衆衛生の向上 および増進につとめなければならない。」を無視した社会保障の削減が続いている。機密保護法で、政府は施策を闇に隠すことも出来るようになった。憲法無視はますます進むだろう。

考えてみればこれは恐ろしいことだ。どの国も、自国の憲法に対しては誠実である。そうでなければ国家の存立が疑われる。早い話、「借金返します」という証文も権力者の手にかかれば「返さなくても良い」と「解釈」されるのでは、社会が成り立たない。

行き着くところは、コネ社会である。法律や条文は、どのようにでも解釈できる。正しいかどうかより、権力者のコネがあるかどうかが重要になる。権力者の顔色を伺うことが生活の基本になる。永田町あたりでは、もう、そういった社会が形成されているかもしれない。昨今の保守政治家の気骨のなさは、それを物語っている。


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