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琉球は海洋国家ではなかった [尖閣]

琉球は海洋国家であったと思われているようだ。南の島が世界に勇翔し、海洋交易で栄えたと言うのは夢のある話ではある。琉球人は東アジアを自由に飛び回り、もちろん尖閣なども行動範囲の中だったことになる。

しかし、そうではなく実は琉球は農業国家だったのである。こういった小さな島は、火山島であることが多く、急峻な山地に覆われているのが常である。ところが琉球は平地が多くあり、農耕ができた。長らく未開の地として残った台湾などと決定的に違うところだ。これこそが琉球を小さいながらも王国として成り立たせた要因だったのである。古来、文明ないし国家の発生は、必ず農耕と共にあった。古代国家の成立には農耕が絶対条件だったのである。

確かに琉球は古くから諸外国とのつながりがあった。随書にも琉球が出てくるし、元史にも1291年の楊祥の訪琉が書いてある。宋の商人は東アジア全域に進出して琉球にも足跡を残している。しかし、それは主として外来者のものであった。砂鉄がなく金属文化に出遅れた琉球は、実に10世紀にまで石器時代が続いていたのだ。海洋国家たるべき船舶技術や航海術は未発達のままだった。

もちろん、琉球は海に囲まれていたから独自の船はあった。サバニと呼ばれる刳り舟がそれだ。船体は細身で軽快となる形状で、島を取り巻く海流に打ち勝って自由な航行ができる優れた船だ。だから琉球の浅くて穏やかな海では大いに活躍したが、全く外洋向きではない。喫水が浅く、すぐに転覆するからそのままでは帆も張れない。独自の船が、ついにサバニからそれ以上に発展することがなかったことが琉球の限界であった。琉球には砂鉄の産出がなく、鉄釘の使用で板材を使った船を作るということができなかったのは、いかんともしがたい。

それでも、サバニを二隻連結して横幅を広げて、帆を張ることは行われていた。『温州府志』によれば、1317年に宮古島からマレーシアに子安貝を持って交易しようとして遭難した人たちがいた。舵すらない船で外洋に出ての漂着を驚かれている。大冒険をいとわなければ遠出も可能ではあった。この他にも記録は残っているが、こんな船では輸送量も知れているから、これを持って、交易で栄えた海洋国家というわけには行かない。

中国との正規の外交関係が始まる前からあった小規模な交易は、島伝いで与那国島から台湾そして大陸といった航路だっただろう。日中の沿岸航法が計器のない時代の基本だ。何日でも日待ちをして、気象条件の良い時を狙って一気に次の陸地まで渡る。そしてまた日待ちをする。これの繰り返しだ。この航路は、短くはあるが、海流が強く、実際にはなかなかの困難がともなったはずだ。大陸との行き来は細々としたものだったし、本島と宮古八重山の間も、ほとんど連絡がなかったようだ。宮古八重山には独自の政権があり、長く琉球王朝の支配は及んでいなかった。

琉球の状況が大きく変わったのは明が冊封体制を海外に広め出してからだ。明では造船も航海術も大きく発展していた。1405年には鄭和が、永楽帝の命により、文献を割り引いて考えても、5000トン級の大船を含む100艘以上もの船団で、インド、アフリカにまで出かけて航路を開発している。明の海洋技術はヨーロッパを凌駕するものであったと言える。

1372年、洪武帝が楊載を琉球に派遣して招諭、つまり朝貢国に勧誘したことで朝貢が始まった。まだ琉球の政権は三山に分裂していたが、各国が競って明に朝貢するようになった。記録にある朝貢回数としてはこの時期が一番多い。わずかな貢物を持って行けば、臣下の礼を取る代わりに、多大な下賜品をもらえるのだから朝貢は非常に分の良い交易だったのである。しかし、小さな船では交易量は知れている。直線航路は無理だから与那国台湾を経由する島伝いの航路だっただろう。

明は琉球との交易を必要としていた。元を駆逐して成立した王朝であるが、蒙古馬の供給地帯は北元が支配していたので琉球馬は貴重だった。中国には火山がなく、火薬原料が得にくいのだが、琉球には唯一ではあるが硫黄鳥島の火山があって硫黄を供給することができた。琉球各国が貢物として持って来るだけでは足りず、李浩を派遣して40匹の馬と5000斤の硫黄を持ち帰らせたりしている。

琉球で一応の船が使われるようになったのは、明から船の下賜が始まってからだ。琉球に船がなかったから明が下賜した。航海ができる人材もなかったので、明が後に久米36姓と呼ばれる人たちを派遣した。無償で船も人も提供するという破格の扱いだが、それだけ明が馬や硫黄を必要としていたということだ。

冊封船の航路は、南の島伝いではなく尖閣を通り抜ける無寄港直線ルートだ。天測航法や逆風帆走が出来てはじめて可能なものだ。明が提供した船と技術者で直行航路が取れるようになり、朝貢も本格的になったが、航海は全て明の丸抱えだったわけである。これを受け継いで消化するだけの経済的文化的基盤が琉球にはまだまだ不足していた。中国人技術者への依存は後代までも続けられることになってしまった。

これらの中国人技術者はいわゆる帰化人ではない。久米村で独自の集団を形成し、中国語での生活を続け、琉球王府からは独立性を保っていた。王府は久米村の統括者の任免権を持っておらず、久米村人は琉球王の家臣ではなかった。記録によれば年取って船の職務を辞するときには明皇帝の許可が必要だったのであるからむしろ明国の出張所であったと言った方がいいかもしれない。

琉球としても朝貢の利益は大きかった。鉄の入手は、農業発展に絶大な威力を発揮し、琉球統一につながった。古謡には鉄製農具の話がよく出てくる。琉球でもまったく造船技術の発達がなかったわけではなく、鉄釘で板材による小船も可能になり、宮古八重山も傘下におさめた。1500年にアカハチを制圧するために48艘3000人で出撃した記録があるから60人程度の船で朝貢船よりけた違いに小さいものではあった。

大型船は派遣中国人たちが握っており、こういった遠征には使われなかったことがわかる。中国人たちは琉球の内戦からは距離を置き、むしろ余った輸送力をシャム、マラッカなどへの交易に振り向けた。南方交易は中国人の手によるものであったし、交易物はそのまま明への貢物となったから、琉球王朝の収益にはつながらなかった。 尚真王の時代に海洋王国の隆盛を迎えたなどと言われるが、「球陽」にある 尚真王の事績は「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ。」と言うだけで交易は一言も出てこない。農業国としての発展を追求しただけだったのである。

この時代の琉球を「中継貿易で栄えた」とする説は実体がない。琉球には大きな産物がなかったから、通常の意味での交易も実はなり立たない。朝貢は交易ではなく、わずかばかりの貢物で明から多大な下楊品をもらう一方的なものだったのだ。琉球王朝は朝貢で明に寄生してなり立っていたようなものだ。南方や日本との交易は、明の皇帝への貢物を買い付けるためのものであったと考えるしかない。

明との行き来は270回に対して日本との交易は15回である。南方への回数も多くない。とても中継貿易と言えるものではないことがわかるだろう。明からの下賜品である鉄器や陶磁器の大部分は琉球で使われ、南方や日本との交易に使われたのはごく一部でしかないことは、物流量からして明らかである。中継貿易論者の議論は、日本や南方との交易があったことだけを根拠にしており、物流と言う視点が欠落している。

三山統一から30年くらいの間はかなり意欲的な南方交易が行われた。これは朝貢特権によるものだ。明は海禁政策により、民間の自由貿易を禁止したので、朝貢による貿易が特権となった。特権を利用した交易だから王府が行うだけで終わり、民間の貿易産業はついに生まれなかった。あるいは、派遣中国人たちが、琉球の特権を隠れ蓑にして南方交易をおこなっていただけとも言える。航路は福州から南方に向けて出かけるものだ。帰りも福州にもどり、物産は明に献上してしまうので那覇への持ち帰りは少なかった。だから、沖縄の遺跡からは南方産物が少ししかでてこない。

馬の飼育は、広い土地があるのだからもちろん明でもできる。政権が安定してくると火薬の需要も少ない。明にとっての琉球の価値は下がって行く。財政が厳しくなったこともあって、朝貢による大盤振舞いは2年1貢とかに制限され、さらに1450年頃からは、船の無償支給もなくなり、琉球は福州で船を買わなくてはならなくなった。独自に外洋船の建造が出来なかったから、交易は大きな出費がともなうものとなっていった。

その後マラッカにはポルトガルなども進出して来たから、交易範囲が広がったことになるはずだが、琉球の交易は逆に衰退していく。ポルトガル人が琉球に替わって交易を担ったからだという説明はおかしい。ポルトガルが日本に南方物産を大量に運んだ事実はない。琉球王からマラッカやシャムへの書簡を見てもわかるように、明の権威をちらつかせて安く仕入れられることで琉球の交易はなり立っていたのだが、ポルトガル人が相手ではそれが通用しない。だからポルトガルとの交易はなかったのである。

海禁政策が緩み、日本の商人も進出してきたとなると、琉球の交易特権も薄れる。朝鮮・日本との交易は日本船が行うし、南方へは明が直接出かける。航海技術に劣る琉球の出る幕はない。もともと中継貿易などと言うのは妄想に過ぎないのだ。歴代宝案は1607年の記事で「計今陸拾多年毫無利入日鑠月銷貧而若洗况又地窄人希賦税所入略償所出如斬匱窘」と書いている。60年このかた、交易は全く利益が上がっておらず財政は困窮しているということだ。

国内的には、ますます農業国となって行き、先島諸島では人頭税制度で、15歳以上の全員に米や粟の物納を課して農業を強制した。だから専業漁民も存在しなかったはずだ。古くから琉球の漁民が、尖閣まで出かけていたなどと言うことはあり得ない。

そもそも八重山にはサバニ以上の船がなかった。琉球本島との間を「官船」が行き来していたが、これは役人だけが使うものである。一番近い八重山からでも150kmある。手漕ぎボートで150kmは無理だ。日のあるうちに行って帰れる範囲だとすれば鼓動範囲は30kmがいいところだ。

1534年に陳侃が冊封使として琉球に来たころが、南方貿易の最後で、これ以降は、久米村人も琉球化してしまい、中国語も話せなくなったし、航海術も失われていった。このことは中山王尚寧が1607年の書簡で嘆いていることからもわかる。明国の海洋技術は高度すぎて、琉球では消化し切れなかったのである。1550年頃には「字号船」と言われる下賜船レベルの大型船の購入もなくなり、1570年が最後のシャム派遣になっている。陳侃は渡航に琉球からの援助があったことを述べているが、これは、まだ健在であった派遣中国人によるものである。冊封使は琉球人が運んだなどというのはトンデモないことだ。

日本が鎖国政策を取ってからは、朝貢が薩摩による密貿易の隠れ蓑になった。しかし、それも10年1貢などと定められて、限定された規模のものになってしまった。朝貢は、わずかな貢物に対する大盤振る舞いの下賜だったのだから、明の財政が厳しくなると当然制限がが厳しくなる。

16世紀後半には、薩摩が琉球を支配し出し、1609年には武力で制圧してしまった。明・清への朝貢は続けられたが、薩摩の指示によるものだった。船は、福州での買い付けの資金も不足するようになって、土船とか本国小船と呼ばれるような、規模の小さなものを琉球で作るようになっていった。これは、薩摩が指導して作り、和船の影響を受けたものであり、中国船に劣る。逆に薩摩通いの船は虚勢を張って、楷船などと呼ばれ、福州から購入したり、軍船の中古を譲り受けたりしたものだった。この負担は、薩摩からの借金となり、琉球は絶えず借金の取立てに苦しむことになったし、人々には過酷な重税が課せられた。琉球に寄港したペリーは先島島民を世界でもまれなほどの貧しい人々と観察している。

この頃の琉球にとって、朝貢は、もはや利益のあるものではなく、負担となっていたが、薩摩の指示で続けざるを得なかった。薩摩への献上品には南方物産も含まれているが、正規の交易はないから、中国経由あるいは、倭寇との闇取引によるものだっただろう。

明治になって、日本が琉球を領土としたときにも、琉球に大きな船はなかったし、船舶技術に見るべきものもなかった。日本でも、明治10年代になって、和船から洋船への転換が始まり、海上交通が飛躍的に盛んとなった。琉球でも、本土資本が進出し、定期航路が出来たりしたが、1893年ですら宮古島と那覇の便船が月に一回の程度であった。古賀辰四郎や伊沢矢喜太といった尖閣に関心を持つ人たちが現れたが、これはすべて本土からの來島者だった。

先島諸島では、明治になっても人頭税で農業が強制されていたのだが、沖縄本島の漁民が進出するようになった。進出漁民の間で尖閣が漁場として認識されるようになったのは、明治20年代も半ばを過ぎてからのことである。日清戦争直前の1893年には尖閣で巨額の漁利を得たといった雑誌記事が見られる。黄尾礁をクバシマなどと呼んだりするようになったのもこの頃からだろう。しかし、先島諸島住民に尖閣は全く知られておらず、明治27年に尖閣領有の根拠を求めて調査をした時にも「該島に関する旧記書類および我邦に属せし証左の明文 又は口碑の伝説等もこれ無し」という状態だった。

日清戦争後になって動力船が一般に活用されるようになると、古賀辰四郎の尖閣での操業などが始まり、人頭税制度がなくなることで飛躍的に先島諸島住民の漁業参加が増大した。尖閣も先島諸島の住民にも知られるようになって、いろんな地元呼称で呼ばれるようになった。古い呼称があるから先島住民が尖閣と行き来していたなどと考えるのは間違いで、伝承として伝えられるものも、実はそう古くはないのだ。

琉球が海洋王国であったことは無いし、尖閣を知ったこともなかったのである。尖閣を琉球人が熟知していたなどと言う事はありえない。
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