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これからの日本はどうなるか(2018) [政治]

2018年の元旦を迎えた。恒例のごとくこれからの日本はどうなるかを考えて見たい。世界の大きな流れはグローバル化である。交通や通信の発達が世界を一つのものにしていく。一番グローバル化を進めているのが大資本で、国際企業は国の枠を超えて多国籍になってしまっている。企業活動はもはや偏狭な国家主義の枠外にはみ出している。

国家が企業群を引き連れて軍事力で進出していく帝国主義の姿は過去のものとなった。軍事は問題を混乱させるだけで、何の解決も与えない。国家の力量を軍事力で測る考え方は通用しなくなったのである。国際資本に国家の助けはいらない。国籍にかかわりなく、容赦なく人々を儲けの対象として行く。国家の役割は、国家企業の牽引ではなく、こうした国際資本の横暴から国民を守り、国民の労働力をどう高く売りつけて行くかを工夫する事にになって行かねばならない。

しかし、2018年現在の時点では、まだそういった流れが全面的になっているようには見えない。むしろ、今までの国の枠組みは強められているようにも見える。パラダイムの転換に気づかず為政者はしゃにむに大国を演出したがる。オリンピックの開催などを梃に、2018年はこういった世界史の流れに逆らうボナパルティズムか跋扈する年になるかもしれない。

アメリカはトランプが大国主義を牽引し、世界に君臨しようと焦る。アジアに於いては、経済の広がりから、唯一の先進国を自任してきた日本の相対的地位が下がる。アメリカの尖兵としてアジアに君臨したい安倍の反動政治が目立つようになる。憲法を変えて軍事を拡大する時代錯誤の政策を進めようとするだろう。

しかし生産がアジアに広がり、日本はその一角を占めるに過ぎない事になる流れは止めようがない。生産だけでなく技術開発も広がっていく。工場の海外移転といった形態で始まった技術流出はさらに進んで、今や現地技術に依存した生産委託が主流になってしまっている。家電などではこれが製品の90%を占めるまでになった。

超低金利・株価つり上げで企業の業績が見かけ上がっているが、生産自体は下落している。旧態依然ととしたアベノミックスの経済政策がやっていることは、政府が借金した金を会社にばら撒いてその金で外国製品を仕入れ、日本製のラベルを貼っているようなものだ。「見かけ」と実態の乖離はますます増大して行かざるを得ない。

財政赤字は膨らむが、景気テコ入れを外すことも出来ない。国民の福祉を削り、低賃金を押し付け、その一方で軍事費を増大させている。明らかに破綻に向かっての道を辿っているのだが、表面にはまだ表れてこない。若年層などは現状に対する強い不安から、政府の「対策」に希望を見出すといった傾向すら見られる。

まやかしの「対策」では救われず、抜本的な転換に踏み出して、世界史が進まなければならないが、その方向への転換の兆しが見られるかどうかといった所だろう。憲法破壊の策動に対する反撃がその結節点になる。もの作り能力の壊失、労働者階級の疲弊による消費の低迷、人口の減少による活力の低下。これらは容赦なく進んで行く。時を刻む時限爆弾と民衆の目覚めとの競争である。
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二次元データの補間 [コンピュータ]

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与えられたデータを実際に使おうとすると、中間点での値が必要になるからどの場合でも補間は必須だ。スプラインとかラグランジェとか高度な補間の仕方はもあるが、一番簡単なのは直線近似つまり点間を直線で結んでデータはその上にあるとすることだ。

これは一次元の話だが、二次元データでも同じように平面近似が出来るかというと、実はそう簡単ではない。直線が2点で決まるように平面は3点で決まってしまうからだ。データが三角メッシュで与えられているならばそれでいい。しかし、大抵の場合四角メッシュで与えられる。それが普通だ。
4pplane.jpg
だから4点をもとにした補間が必要なのだが、4点で決まる面は図のように曲面にならざるを得ない。平面で近似しようとすると一点余ってしまう。強引に3点だけを使うようにするとメッシュ点を切り替える境界で飛びが出来ることになる。4点の場合「ねじれ」を考慮しなければならず、直線近似できないのだ。

では、どうすればいいかというと、「定数」「x項」「y項」「xy項」の4つにしてそれぞれの係数を4点のデータで決めるとよい。一番簡単な、縦横の間隔dx,dyのメッシュでデータが与えられている場合の補間式を掲げておこう。

V0=(1 -(x-x0) /dx-(y-y0)/dy +(x-x0)(y -0y)/dx/dy)*val(0)

V1=((x -x0)/dx-(x -x0)(y-y0)/dx/dy)*val(1)

V2=((y -y0)/dy-(x -x0)(y-y0)/dx/dy)*val(2)

V3=( (x-x0)(y -0y)/dx/dy*val(3)

Val(x,y)=v0+v1+v2+v3

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サンフランシスコの慰安婦像 [社会]

サンフランシスコ市が慰安婦像の設置を受け入れたことに対して、大阪市長が文句をつけたと言う。設置するなら姉妹都市を解消するとまで脅したのだが、サンフランシスコ市議会は全員一致で設置を認めた。一人の反対も出ず、大阪市長の主張は全く説得力がなかったことになる。

考えて見れば当たり前のことで、慰安婦像を設置するなということは、原爆碑を建てるなと言うことやナチスによるユダヤ人虐殺の記念碑を立てるなと言うことに等しい。良識をもった議員にとうてい納得できることではないのだ。

戦前の日本軍に不幸な慰安婦がいたことは紛れもない事実であり、これを否定するなどと言うことは妄想に類する。多くの被害者がいるのに、全員がウソつきだという極端な主張だ。強制はなかったなどと言うが、その根拠は何もない。あるのは被害者の証言があやふやだと言う事だけだ。70年も前の事だあやふやでないのがむしろおかしいくらいだ。もちろん調べれば強制に関しては確かな証拠もある

逆に目立つのは、大阪市民を代表する市長がこのような無理筋の主張をして恥じないことだろう。大阪市長だけではない。多くの保守政治家が論理性なくこういった主張を繰り返している。自ら事実を調べることもせず、右へ倣えで右翼的主張をしていれば身が安泰だということだろう。安倍一強のもとで寄らば大樹の陰にすべてが靡いてしまうのかもしれない。保守政治家の間のものとは言え妄想が半ば常識化するという日本の異常性が問われるばかりだ。
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テキサスの風土----銃乱射26人死亡事件 [社会]

アメリカでまた銃の乱射事件だ。テキサス州の田舎町サザーランドスプリングスでの出来事だ。平和な町の教会に日曜日のミサに集まった人たちが大勢撃たれるなどということなどは、およそあり得ないことだ。しかし、アメリカでは起こりえる。事件の展開は実にテキサスっぽい。

テキサスには一種独特の風土がある。「男らしさ」が強調され、町の人々はカーボーイハットを被るのが好きだ。ロデオが開催され、背広にハットといういでたちも珍しくない。大きな星条旗とテキサス州旗があちこちに翻る。独立州としての誇り高くニューヨークやワシントンの人たちを「ヤンキー」とさげすむ。大きな州で財政も豊か。ブッシュファミリーなど石油成金も多い。

しかし田舎に行けば家々は貧しい。立派な建物があると思えば必ず教会だ。他の週には見られないほど教会が多い。犯行の場所が教会だったのは、わかるような気がする。教会というのは社会の象徴であり、田舎町なら、ことが起こるとすれば教会以外に場所はない。

犯人は、おそらく本人の異常性によるものだが、家庭問題を抱えていた。何度か結婚してうまくいかず、子供に頭蓋骨陥没の重傷を負わすような家庭内暴力の前歴がある。妻の実家に恨みを持ち、義母が通う教会を襲撃したのだ。家庭問題はどこにでもあるが、それがこのような形で現れるのは銃社会なればこそだ。

銃はホームセンターや大きなスーパーなど、どこでも買えるが、銃の所持には一応の規制がある。免許証などを見せて犯罪歴がないかどうか、ブラックリストをチェックしてもらわねばならない。このデータベースはいい加減で、この犯人の場合、登録もれになっていたという。実際には当日義母たちは教会に行っていなかったから撃たれたのはすべて無関係な人たちだ。

テキサスで、銃はありふれた品物だ。四駆車には銃架がついていることもよくある。子供たちが遊びに行く近所の家には必ず銃があった。「危ないじゃないですか?」といったら、「そうなのよ、だから出したままにしないでっていつも言ってるのよ」「でも、心配しないで、家では絶対、弾を込めたままにしないから」と言った具合で、銃規制などもちろん念頭にない。

銃声を聞いて、近所の人たちが自分のライフルを持って駆け付け、犯人と撃ち合いになった。犯人は足と胸を打たれて車に逃げ込み、逃亡しようとした。それをまた時速150㎞で追いかけたと言う。犯人の車は運転を誤って道路わき駅激突した。これまでと思ったか、自分の頭を撃ちぬいて自殺した。ほかの場所ではあり得ない展開だ。

テキサスの人たちはまだ西部劇の世界に住んでいるのだ。テキサスで暮らした僕の経験はもう20年も前のことだが、きっと今も変わらないと思う。

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この選挙は一体何だったのか ---- 2017年衆院選 [政治]

安倍政権は森友・加計問題で政府の私物化を追求されるはずの臨時国会で、審議抜きの冒頭解散という暴挙に出た。ところが野党第一党の民進党は自党の公認を出さず、他党に公認してもらうという前代未聞の対応をした。ジリ貧状態から抜け出そうとしたのかも知れないが小池ブームに悪ノリした形だ。当然のごとく反発が生まれ3分解してしまった。このため自民党の大勝となった。

これは今の政治に人々が満足しているということではもちろんない。人々の意思はなかなか選挙には反映されない。希望などが出てきたこと自体が安倍内閣に対する不安の表明ではある。実際、日本の産業は衰退が見えており、技術力の低下は著しいし、生活向上の期待もない。しかし、明確な方向性をもって大企業優遇の政治、軍備拡大の政治に批判をあらわにし、根本的改革を求めるほど、人々の考えは整理されていない。だから何かブームに乗って新しい政党に期待したりするのだ。

世の中はわかりやすいものではない。技術の崩壊があっても株高なら表向きは景気が良い。正規雇用が失われ、非正規雇用ばかりになっても、一応職にはありつける。多くの人々が表層で動くのは仕方がないことだ。時給800円であっても、ファミレスで980円のランチが食べられるなら暴動は怒らない。まだ国民は追い詰められているとまでは感じていない。

争点になったはずの加計問題については語られず、消費税も戦争法も争点にはならなかった。与党の優位が動かないという無気力感の中で、今回の焦点はもっぱら立憲か希望かという野党の行方になってしまっていた。結果として立憲民主党の圧勝となり、自民党に追随するような野党はいらないということが示された。もし、当初予想されたように希望に票が集中してしまっていたら、大政翼賛改憲議会になっていたところだ。

この点ではまだ日本人の理性も見捨てたものではない。安倍政権に対して追随する勢力ばかりでは危ないという感性が、ぎりぎりのところで働いたのである。大勝と言っているが特に自民党の議席が増えたわけでもない。しかし、国会の中が沈みゆく日本を大国妄想で乗り切ろうとする改憲勢力で占められている事実は変わらない。現在の右傾化現象は展望が見いだされない時に必ず現れる過去の栄光への寄りかかりである。過去を美化して回帰を夢見るのだ。

もちろん、そんなことで国民は救われない。国民にとっては困難な時代が続く。ますます困窮を深めるから、明日の食い物にも困るというところまで追い詰められれば、いかに歪んだ選挙制度といっても人々の意思が選挙に反映されないわけには行かないだろう。しかし、それまでに払う犠牲の大きさを思うと、少しでも早く多くの人に目覚めてほしいと思う。

今回の選挙はこうした歴史の流れがたどる紆余曲折の一里塚として記憶されるしかないだろう。
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